元ピチカート・ファイヴのボーカルでシンガーの野宮真貴さんと、乃木坂46が『MUSIC FAIR』(フジテレビ系)でコラボ。共演する「東京は夜の七時」は野宮さんにとってどんな意味を持つ一曲なのでしょう。音楽プロデューサーの坂口修さんとの対談、後編です。
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「初対面の小西くんは全然目を合わせてくれなかった」
速水 野宮さんがポータブル・ロックからピチカートに正式加入するまでは、どんな流れだったんですか?
野宮 ポータブル・ロックでギターを弾いていた鈴木智文くんが、小西(康陽)くんと同じ青山学院大学のベターデイズという音楽サークルに入っていたんです。小西くんのこともピチカート・ファイヴのことも聞いていて、佐々木麻美子さん時代のライブも観に行きました。それで『女王陛下のピチカート・ファイヴ』というアルバムの時に、ポータブル・ロックのギターの鈴木くんとベースの中原(信雄)くんがレコーディングに参加するというので、スタジオに遊びに行って、初めて小西くんに会いました。
速水 初対面の印象は?
野宮 全然目を合わせてくれない(笑)。
速水 想像通りです(笑)。
野宮 そうしたら、その場で田島(貴男)くんとのデュエットを頼まれて、それがピチカート・ファイヴの初めてのお仕事です。
速水 もちろん小西さんはポータブル・ロックのことは知っていたんですよね?
野宮 知っていたと思います。実は、これはあとになって聞いた話なんですけど、パルコの企画でポータブル・ロックのプロモーションビデオを慶一さんが撮影して、その発表イベントでライブをやったんです。音響設備もない場所だったのでテープを流して楽器は当て振りで歌いました。それを偶然、小西くんが見ていたらしく、たまたまパルコの前を通ったら看板に「ポータブル・ロック」と書いてあったって。
坂口 わざわざ来たんじゃないんだ。
野宮 そう、たまたま。そこでポータブル・ロックの当て振りライヴを観て衝撃を受けて、ピチカート・ファイヴの構想に繋がったらしいです。
坂口 当時としては、いわゆるバンドサウンドじゃない演出が新鮮だったんでしょうね。
速水 それが1984年くらい?
野宮 83年かな?
おぐら 公園通りで渋谷系が生まれた瞬間じゃないですか。
野宮 ほんとだ。渋谷からはじまってる。今はじめて気がつきました(笑)。
速水 そこからピチカートのアルバムにコーラスとして参加したり、ツアーを一緒にまわるようになっていったと。
野宮 はい。80年代の終わり頃ですね。そして田島貴男くんがオリジナル・ラヴに専念することになって、メインボーカルに抜擢されました。
坂口 その時はまだポータブル・ロックとして活動してましたよね?
野宮 そうなんです。アルバムのレコーディングにも取り掛かっていて、小西くんにも2曲作詞してもらって出す予定だったんですよ。私なりに迷って考えたんですが、ピチカート・ファイヴに魅力を感じていたので決断しました。
坂口 それで、1991年のアルバム『女性上位時代』から正式加入すると。