「小西くんも信藤さんも私も、ベースには60年代があった」
速水 小西さんからのアプローチは、どんな感じだったんですか?
野宮 毎日電話かかってきました。
おぐら 毎日電話!
速水 電話では何と?
野宮 「君をスターにする」って(笑)。
坂口 言葉通り、本当にスターになりましたね。
速水 いざ正式に加入してみて、最初の頃はどういう感じでしたか?
野宮 『女性上位時代』の頃、小西くんは次から次へと曲が出来て絶好調でしたね。録音も実験的なことに挑戦したり、楽しかったですよ。そのあと『SWEET SOUL REVUE』が出たときは、CMのタイアップもあってメジャーを意識したアルバムで、すごくいいものができたっていう手応えはありました。
坂口 『月面軟着陸』(90年)の頃からサンプリングの手法は取り入れてましたけど、キャッチーで一番いい形のサンプリングができたのが『SWEET SOUL REVUE』でしたよね。
野宮 ヒットしたとかよりも、とにかく自分たちの中から湧き出てくるもの、やりたいことを全部やったっていう感触があったんです。
坂口 野宮真貴との出会いは、小西さんはもちろん、渋谷系のアートワークの象徴でもある信藤三雄さんにとっても、60年代のモチーフだったり、自分たちが影響を受けたビジュアルを具現化するのに最適な逸材を発見したような気持ちだったと思いますよ。
野宮 小西くんも信藤さんも私も、ベースには60年代があって、好きなものが一緒だったと思います。音楽でも映画でもファッションでも、お互いに伝えたいことがちゃんとイメージできた。
坂口 歌唱だけではなく、ビジュアルという役割も完璧にこなすことができた野宮さんは、天から二物を与えられた人なんです。渋谷系にはたくさんの逸材がいますが、その多くが男性でしょう。そう考えると、野宮さんがどれだけ貴重な存在だったか。
おニャン子クラブのおかげで「渋谷系」が生まれた?
速水 そもそもあの時代に「渋谷系」が生まれたのには、どういった背景があったのでしょうか?
坂口 CDが登場して、87年にアナログの売り上げを追い越します。そのタイミングでレコード会社は、自社のカタログ、つまり原盤権を持っている過去の音源をCDとして再発するための掘り出しをはじめました。渋谷系にとって重要なレーベルA&Mには、バート・バカラックやロジャー・ニコルズ、クロディーヌ・ロンジェなどの音源があって、日本ではちょうど、YMOのアルファレコードとライセンスが切れた時期でした。カーペンターズなどが売りで契約金はすごく跳ね上がったのですが、それを射止めたのが、当時おニャン子クラブがヒットしてお金に余裕のあったポニーキャニオンだったんですよ。
速水 おニャン子クラブのおかげで渋谷系が!
坂口 と言っても過言ではないですね。87年にポニーキャニオンがA&Mと契約して、最初に50枚のCDが再発されたのですが、それを手がけたのが南青山の骨董通りにあったレコードショップ「パイドパイパーハウス」の長門芳郎さん。マイナーな盤もリリースできたのは、50枚という量があったからで、その余裕を生んだのはおニャン子クラブが稼いでくれたおかげです。
速水 ポリスターがWinkのヒットで稼いだお金があったからこそ、フリッパーズ・ギターに予算を割くことができたというのは有名な話ですが、それにも通じますね。