夕張岳には、おやこ劇場の仲間と登ったり、毎年の山開きに参加したりしていたが、「市長には歯向かえない」と思った。強い政治力を持つ中田市長は天皇のような存在で、市内では様々な団体が挙げてスキー場開発を要望していた。
炭鉱会社が住宅から娯楽まで、生活のほとんどを無償で提供してきた夕張は、住民の依存心が強いまちとされる。炭坑(ヤマ)で働く人々が家族のように助け合う「一山一家」の気風も異論を挟めない雰囲気を作ってきた。このため「市民運動不毛の地」とまで言われていた。
水尾さんは夕張岳の貴重さを学んでいくうちに、反対運動に心が傾いていった。市内には少数だが開発を疑問視する人もいた。人の目がある場所では集まりにくく、「車のナンバーを見られないよう、集合場所の裏に止めるようなことまでしました」と振り返る。
八九年、市内外の約五十人で会を結成した。山の愛好家だけでなく、教員、会社員、主婦と様々な人が集まった。ユウパリコザクラの名を冠したのは、市民の賛同を得やすくするためだ。市内には「開発反対」と言えない空気がある。そこで直球勝負はせず、夕張岳を国の天然記念物に指定する運動を行った。指定されれば「反対」という言葉を一切出さなくてもスキー場は建設できない。水尾さんは事務局を担当した。そしてゆくゆくは事務局長として運動を引っ張っていくことになる。
わずか数センチの背丈しかないユウパリコザクラは、夕張岳の雪解けを待ちわびるかのようにしてピンクの花を咲かせる。その清楚で可憐な姿を見るたびに、水尾さんは「守ってあげたい」と思った。
会ではまず、先行して署名活動をしていた山岳会に協力した。天然記念物指定を国に働きかけるよう市に求める内容で、一万人以上から集めた。独自にシンポジウムも行った。
運動を受けて九〇年、道が開発反対を表明した。予定地が一部、開発規制のある道立自然公園の第一種特別地域に入っていたからだ。これを受けて国土計画は開発を断念した。もし着手していたら、開発に協力するはずだった市の負債額も増していただろう。
だが「開発断念」となった途端に出てこなくなる男性会員が増えた。水尾さんは「職場で圧力があったのではないか」と思った。夕張岳はまだ天然記念物に指定されておらず、運動は始まったばかりだ。女性が中心になって学習登山や講演会、写真展などを催した。市議会や市教育委員会を対象に花のスライド上映も行った。国や道には直接訴えた。
水尾さんの夫は市職員で、職場での風当たりが強かったようだ。「生活はなんとかなるから、役所を辞めてもいいよ」と言ったこともある。夫妻が踏ん張ったのは三人の子に自分で判断する力を養ってほしかったからだ。水尾さんは「お父さんは『カラスは白い』と上から言われたら、『白い』と言わざるを得ないかもしれない。でも、カラスは見た通り黒なんだよ」と子供達に説いた。
九六年、粘り強い運動が実って夕張岳と高山植物群が国の天然記念物に指定された。山と植物が一緒に指定されたのは全国で初めてだった。
ところが翌年、植物が大量に盗掘された。「指定だけでは守れない」。水尾さんらは衝撃を受けた。そこで道内の自然保護団体などとネットワークを結成し、高山植物の保護制度導入や盗掘防止を呼び掛けるシンポジウムを開いた。これは現在まで毎年行っている。国有林の夕張岳で、会がボランティアでパトロールをする協定も国と結んだ。
そうした動きに突き動かされるようにして道は〇一年、希少野生動植物の保護条例を制定した。