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「覚えていますよ」と川口は笑った

 昨年、アジア最終予選をテーマにしたインタビューを行なった際に、この話を本人に聞いてみた。「覚えてますよ」と彼は笑った。

「ジョホールバルのグラウンドがスリッピーであのときもクロスのボールが伸びるなとは思っていましたし、ダエイが来たことも分かっていました。さすがのダエイも届かないだろうと思っていたら、届いた。ダエイが凄く悔しそうな顔を浮かべていたので、『大丈夫か』みたいな感じでした。あんなことやれるぐらい、精神的には落ち着いていたんだと思います」

2001年、イングランドのポーツマスへ。日本人GKの海外移籍の先駆者となった ©文藝春秋

 絶体絶命のピンチにも、何故そこまで落ち着くことができたのか。

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 そう問うと、「あの年の最終予選の経験もあると思います」と答えた。

 加茂周監督からコーチだった岡田武史監督への交代劇があり、引き分けに終わった国立競技場でのUAE戦では選手バスに生卵がぶつけられた。日本列島を渦巻く期待感が失望感に変わった瞬間、その矛先はチームや選手たちにも向けられた。

「イランとの120分間は最終予選の2カ月の流れとまったく一緒でした。勝ってスタートして韓国戦の敗北、そして加茂(周)さんの解任があって、岡田(武史)さんのもと最後は連勝しました。イラン戦も先制しながら逆転され、こちらが追いついて最後は岡野さんのゴール……。あの2カ月で(全員が)たくましくなったから勝てたのかなって思うんです」

2度の大ケガにも負けなかった

 ダエイの頭を撫でたシーンは、想像を絶するプレッシャーに打ち勝った瞬間でもあった。最後は負けない。あきらめない。何とかなる。

 これは川口能活のその後の人生訓にもなった。

 華々しい経歴を誇る一方で、30代半ばに入ってからはケガとの戦いが待っていた。選手生命を脅かす大ケガにも2度見舞われている。それでも彼は、負けなかった。あきらめなかった。何とかなった。

 人の心を奮わせ、人の心をたぎらせる。彼のプレーも、彼のサッカー人生も。人の心を動かせる人だからこそ、歴史を動かせるゴールキーパーになれたのかもしれない。

2016年から引退発表までは、J3のSC相模原でプレーした ©文藝春秋