短縮版の「終わり」と完全版の「その先」
崩れ落ちつつある崖をかろうじて抜けるトラックのシーンや、クルーゾー版にはない、嵐に翻弄される吊り橋を渡るシチュエーションが、リアルでサスペンスフルであればあるほど、それは死へと繋がる行軍に見えてくるのだ。
死者たちが抜け出せない迷宮を巡り続ける旅。その感覚は、3人の仲間が死に、一人残されたドミンゲスが油田を目指す(この状況もクルーゾー版と同じである)段階になると一層、強くなる。この世とは思えない奇岩だらけの土地を、ドミンゲスのトラックは走る。死んだはずのニーロの笑い声が不気味にこだまし、ニュージャージーで起きた事故から、ここに至るまでの道中がフラッシュバックする。その間、ドミンゲスは“Where am I going?”と独り言をつぶやくばかりなのだ。
目的を見失ったかに見えたドミンゲスは、それでも油田にたどり着く。ニトロの箱を抱えたその足取りは、死者のようだ。
ドミンゲスは、ヘリに乗せられて帰路につき、多額の報酬金額が記載された小切手を提示される。実は昔観た“短縮版”はここで終わっていた。
クルーゾー版で最後に主人公マリオを襲った悲劇と比較して、安易なエンディングだと批判されても仕方がない。しかし、完全版にはこの先があるのだ。
目的を達成し、死者の状態から蘇ったかに見えたドミンゲスだが、そこに一人の男が訪れる。それはマフィアの刺客だった。死は、執拗にドミンゲスを追いかけてきたのだ。
映画を商品ではなく作品として取り戻すこと
4人の男たちの始点と終点は同じだ。
銃で人を葬った殺し屋は、現地のゲリラの銃で死ぬ。爆弾を仕掛けたテロリストは、ニトロの爆発で死ぬ。妻に別れを告げられなかった投資家は、手紙を渡せずに死ぬ。マフィアのドミンゲスにも、マフィアの刺客が忍び寄る。
クルーゾー版と同じ構造の物語を語りながら、フリードキンはSORCERERとなって、別の“恐怖の報酬”をLAZAROとして蘇らせたのだ。それが出来たのは、長い間、作品を理不尽にも封じられていた監督フリードキンの、真の“報酬”を届けたいという執念があったからに違いない。
監督に作品の編集権がないというのは、今も存在し続けている問題である。マーケットを相手にして利益を上げる映画会社は、映画を商品として流通させなければならないという理屈を盾にして、映画を監督から奪ってしまう。創作者である監督や、作品に対する敬意や倫理は存在しないかのようだ。そんな状況が続くのであれば、映画はただの消費財でしかなくなり、結果として映画産業自体が先細ってしまうだろう。映画を商品に仕立てて、利益を追求するという行為が、映画を殺してしまうことになる。映画会社という存在の自殺行為でもあるだろう。
だからこそ、映画を商品ではなく作品として取り戻すことが必要なのだ。