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生き残りを賭けた鬼勝負

 三段リーグに所属する宮本は、すでに26歳を過ぎ、27歳となっていた。しかし前述の勝ち越し延長規定により、すでに3期、三段リーグでの挑戦を続けてきた。そしてこの期は、鈴木と同じように7勝8敗と追い込まれながら、そこから連勝。最終局に勝てば、生き残るという点まで一緒だった。

 そして、何ということか。9勝8敗同士、勝ち越しを決めれば三段リーグに残れる鈴木と宮本は、最終18局目で対戦することが決まっていた。

 その意味するところは、簡明で、残酷だ。すなわち、負けた方が、奨励会退会となる。

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 三段リーグはこれまで、数々の残酷なドラマを生んできた。しかしこれほどまでに過酷な勝負が、過去にどれだけあっただろうか。

 鈴木にとっては、もう触れてほしくない過去のことかもしれない。しかし改めて、鈴木に当時のことを語ってもらった。

「そうですね。あの将棋は、すごくいい将棋だったんですよ。自分の中では、一番いい将棋が指せたというか」

 大勝負に名局なしという。しかしこの一局は、おそるべき大熱戦となった。

「最後の10分ぐらいで、形勢は二転三転しました。『詰めろ逃れの詰めろ』が3回ぐらい出ました。激闘だったんです。『勝ったな』と思った瞬間もあったし、『もうダメだ』と思った瞬間もあった。10分の間に、いろんなことが起きすぎました」

 この時運命は、鈴木に味方しなかった。

「最後の最後に『ああ、おれはこれで死ぬんだな』という気がしました。『おれはこれだけの将棋が指せるのにな。もっと指したかったな』と思いました。でもいろんなことが起こりすぎて、終わった直後は、何が起きたかよくわかんなかった。そう感じたことを覚えています」

 盤上に残された駒の配置だけを見れば、結果は残酷なまでに明白だった。

 宮本、10勝8敗。

 鈴木、9勝9敗。

 わずか星1つの差で、両者の運命は大きく分かれた。勝ち越した宮本は、奨励会員として生き残った。敗れた鈴木は、年齢制限の規定により、12年在籍した奨励会の退会が決まった。

 奨励会幹事の棋士にあいさつをして、鈴木は長年通い続けた将棋会館を後にした。

「恥ずかしい話ですが、帰りの電車では泣きました」

 人目もはばからず、鈴木は泣き続けた。帰宅後も、ずっと泣き続けた。

 対局から2日後の9月9日。26歳になった。鈴木にとって、人生最悪の誕生日だ。

「この世の終わりみたいな誕生日でした。あの誕生日だけは忘れられないです」

 5年後のいま、鈴木はそう振り返った。

「自暴自棄になっていました」

 鈴木と宮本による、三段リーグ最終戦での運命の一戦には、続きの話がある。鈴木との死闘を制した宮本は、次の2013年度後期の三段リーグで白星を重ねた。そして13勝5敗という好成績をあげ、四段に昇段している。

 プロになった宮本。奨励会を去った鈴木。その差は何と形容すればいいのか。

 鈴木は奨励会を辞めてしばらくの間、精彩を欠いた日々を過ごしていた。

「いろんなことをやってはダメでした。アルバイトも辞めたし……。自分がいま何をやりたいかもわかんなくて、自暴自棄になっていました」

 鈴木にとっては、つらい日々が続いた。

 鈴木は従弟の森村賢平に、自分が果たせなかった望みを託した。

「彼は上がると思っていました」

 森村は16歳で三段になった。エリートコースにいたと言ってもいい。しかし、その森村にとっても、三段リーグは厚い壁だった。森村はそこに18期在籍し、ついに26歳で年齢制限を迎えていた。

 しばらく後、鈴木に転機が訪れた。再び将棋に触れる機会を得たのだ。

「森内先生(俊之九段)や横浜の方から『将棋講師をやってみないか』と声を掛けていただいたんです」

指導先の企業の将棋部にて、5面指しの指導

 鈴木は指導者として、再び将棋に向き合うようになった。鈴木は優しく親切な人柄だ。子どもたちに将棋を教えることは、もしかしたら、天職だったのかもしれない。現在は横浜の吉野町で「はじめしょうぎ教室」、青葉区で「青葉はじめしょうぎ教室」の講師を務めている。

「最近は人も増えてきました。おかげさまで今は楽しく将棋を教えています。教え子がもう10人ぐらい奨励会に入っています。子どもたちに刺激を受けて、『先生もちょっと強いところを見せようかな。負けられへんな』と思っています」