ミュージシャンの椎名林檎が、きょう11月25日、40歳の誕生日を迎えた。今月14日には、大晦日のNHK紅白歌合戦に、エレファントカシマシの宮本浩次とともに特別企画の枠で出場することが発表されたばかりだ。

「音楽業界のおじさまたち」が望んだアーティスト像

ナースの格好でガラスを叩き割り、強烈なインパクトを与えたシングル「本能」

 今年は、1998年にシングル「幸福論」でデビューしてから20周年の節目の年でもあった。その登場はとにかく鮮烈だった。シングル「本能」(1999年)では、ジャケットやミュージックビデオにナースの格好で登場し、インパクトを与えた。椎名によれば、当時はタイアップがなくてはデビューできないような時代で、音楽をめぐる環境は必ずしもよくなかったという。そのなかにあって彼女は、自分の作品を手に取ってもらうため、《商品のイメージに合うように、広告とかシンボルに徹したい》と、どんな格好になることもいとわなかった(※1)。その戦略もあり、1stアルバム『無罪モラトリアム』(1999年)は160万枚超、2ndアルバム『勝訴ストリップ』(2000年)は250万枚超を売り上げた。

 そうやってつくりあげたイメージはいつしか独り歩きしていく。歌詞が深読みされ、「椎名林檎」は偶像化された。しかしそれは本人の望むところではなかった。後年、デビュー当時を振り返り、《音楽業界のおじさまたちがおっしゃるアーティストのあるべき姿を盗み聞いて、宣伝になる材料をお渡ししなければと思っていました。それが世の中には、個性というふうに届いてしまって、大きな誤解をあちこちに投げかけているようで辛かったですね》と語っている(※2)。

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結婚、出産、テロ――「籠もっていてはいけない」

 デビュー3年目の2000年、「椎名林檎をアルバム3枚で閉じる」と宣言し、同年末には結婚、翌01年22歳で出産するとしばらく音楽から離れた。そんな彼女を再び音楽に引き戻したのは、出産直後に起きたアメリカ同時多発テロがきっかけだという。

《世の中が狂っていくことに対して何もできない自分がいて、子どもが私の年齢になったときの世界を考えていない母親の方が、よっぽど無責任だと思った。傷ついたりして籠っていてはいけないな、と。私は女だから、社会をどうにかするっていうより、人々の気分、感情に作用しなければいけない、関係することを怖がるのは情けない、と思いましたね》(※2)

2003年、TBS「筑紫哲也NEWS23」で筑紫哲也と対談。活動休止後初の地上波テレビ出演だった

 こうして椎名は活動を再開、2003年、先の宣言どおり3枚目のアルバム『加爾基 精液 栗ノ花(カルキ ザーメン くりのはな)』とそのツアーをもって一旦ソロ活動に区切りをつけると、翌04年には信頼するミュージシャンらとバンド「東京事変」を結成する。以後、バンド活動を続けながら、蜷川実花監督の『さくらん』(2007年)で初めて映画音楽を手がけ、さらにこのときの楽曲を発展させ、バイオリニスト・アレンジャーの斎藤ネコとの共作としてアルバム『平成風俗』(2007年)を発表するなど、新境地を拓いていった。30歳を迎えた2008年11月には「椎名林檎(生)林檎博'08~10周年記念祭~」をさいたまスーパーアリーナで開催、新旧の自作を新たな解釈で歌ったこのライブは高く評価され、同年度の芸術選奨大衆芸能部門の文部科学大臣新人賞にも選ばれている。ソロアルバム『三文ゴシップ』をリリースし、6年ぶりに封印を解いたのは、その翌年のことだ。