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東大病院は漢方医を育てようとしなかった

 東大病院は1998年に組織改編が行われ、内科については、これまで第一内科、第二内科とナンバー科制だったのが、神経内科、循環器内科、消化器内科など、臓器別の専攻分野体制になりました。しかしその際、東洋医学専攻は作られず、同じ漢方外来の医師でも私は消化器内科、他の先生は呼吸器内科などの所属となりました。専攻分野体制では、若い医師が東洋医学を専攻することができなくなるため、若い漢方医が育ちません。さらに東大には東洋医学を指導できる常勤の教官はひとりもいず、最近では学生への指導を他大に頼っている状態です。

 このように日本を代表する東京大学医学部は、東洋医学を蔑ろにし、漢方医を育てようとしてこなかったのです。別の見方をすれば、東大医学部の数多くのポストすべてを西洋医学専攻のものが独占し、1ポストすら東洋医学専攻のものに与えようとしない集団的利己主義の現れとも考えられます。ですから私自身も、漢方を学び、志す後輩がいればバトンタッチすることも考えていましたが、バトンタッチをしたくてもできない状況です。任期満了となり、契約更新も拒絶され、東大病院の漢方外来は幕を閉じることになってしまったのです。

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漢方医は民間レベルで生き残るしかなかった

 漢方は、もともと古代の中国に発するものですが、日本に導入されたのは5〜6世紀頃。鎖国政策をとった江戸時代に大きく発展し、日本独自の漢方は高いレベルにまで達しました。しかし、明治時代になると、政府は、重くのしかかっていた不平等条約撤廃を実現するため、富国強兵、脱亜入欧の掛け声の下、西洋医学中心の新しい医療体系を作ろうとし、1874年に医制を制定、西洋7科に基づく医師国家試験制度を定め、医業を開業するには国家試験に合格しなければならないとしました。

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 当時、医師27000人ほどいるうち漢方医は約22000人、8割以上が漢方医でしたが、漢方を学ばなくても医師になることができるようになり漢方を知らない医師ばかりが誕生することになりました。そのため漢方医学は断絶の危機に瀕しましたが、一部の医師や薬剤師などにより民間レベルで生き続けてきたのです。再度、漢方が注目されるようになってきたのは昭和に入ってから。1961年に国民皆保険制度が実施され、1967年に漢方製剤4処方が保険収載、1976年に増補され42処方が収載されました。

 1991年には東洋医学の研究団体である日本東洋医学会が日本医学会に加盟することを許可されました。多くの先輩達がそのために奔走し、3度目の申請でようやく許可されたのです。この出来事は東洋医学が日本の医学として認められたことを示す一大事でした。