京大法学部教授だった高坂正堯先生が1996年に他界してから、22年以上が経つ。かつて授業を受けたことがあり、拙著『高坂正堯――戦後日本と現実主義』(中公新書)も刊行しているため、ここでは高坂先生と呼ばせていただきたい。

佐藤栄作のノーベル平和賞授賞工作に一役買った

 高坂先生は1963年、28歳の若さで「現実主義者の平和論」を『中央公論』に発表し、衝撃的な論壇デビューを果たした。『海洋国家日本の構想』、『宰相 吉田茂』、『古典外交の成熟と崩壊』などの主著は、続々と復刊されている。

中曽根康弘首相に平和問題研究会の報告書を手渡す高坂正堯(1984年)©︎共同通信社

 高坂先生が国際政治学のパイオニア的存在であっただけでなく、多くの優秀な研究者を輩出した教育者でもあったことはよく知られている。

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 同時に高坂先生は行動する学者でもあり、佐藤栄作、三木武夫、大平正芳、中曽根康弘といった歴代総理のブレーンだった。佐藤のノーベル平和賞授賞工作に一役買ったこともある。

 拙著『高坂正堯』では字数オーバーのため詳しく書けなかったが、高坂先生は自民党の雑誌『月刊自由民主』に少なくとも73本の論考を掲載している。その多くは内外の情勢をめぐる時評だが、対談もある。例えば、外務大臣だった藤山愛一郎とは「岸時代と日米安保」について対談し、高坂先生は「岸さんという人は旧式のナショナリストなんですよ」と語っている。

巨人ファンから阪神ファンへの転向

 このように高坂先生は、自民党政権に近かった。だからといって、御用学者とみるのは短絡的すぎる。そのことについては、中曽根との不即不離の関係などを拙著で論じたので、ここでは繰り返さない。高坂先生は、京都と東京の距離感を気に入っていた。

「虎キチ」としても知られた高坂正堯 ©︎文藝春秋

 そのことと通底するエピソードを挙げるとするなら、巨人ファンから阪神ファンへの転向であろう。高坂先生は熱狂的な「虎キチ」として知られていが、アメリカに留学するまでは巨人ファンだった。

 しかし、留学先のアメリカからみると、日本の東京一極集中は異様であり、日本の発展を阻害すると思えた。そこで高坂先生は、東京一極集中へのささやかな抵抗として、阪神ファンに転向したのである(高坂節三『昭和の宿命を見つめた眼──父・高坂正顕と兄・高坂正堯』PHP研究所、2000年)。