あれは高木守道監督の第1次政権4年目、1995年の5月だったと記憶している。「監督がどこにもいない」。東京遠征中の宿舎での朝、ドラゴンズの球団関係者がホテルのロビーで慌てていた。

 国民的行事とさえ言われた巨人との10・8決戦から、まだ半年ほど。ところがこの年のドラゴンズは開幕から故障者が続出し、成績は低迷。この時も前日に黒星を喫して上昇の気配は見えず、ファンから容赦ない罵声を浴びせられた高木監督は思い詰めたような表情で球場を後にしていた。

「まさか……」。当時は中日スポーツのドラゴンズ担当記者だった私の頭を“最悪の事態”がよぎる。それは球団関係者も同じだった。「すぐに監督を探そう」。一斉捜索が始まった。

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 間もなく連絡が入る。「監督が見つかった」。ホテルからさほど離れていないJR市ケ谷駅の近くにある線路沿いの釣り堀。そこに高木監督はたたずみ、午前中から釣りに興じる人たちを見つめていたという。

 ホテルに戻ってきた高木監督には誰も声を掛けられなかった。もちろん私も。釣りが趣味で、その中でもヘラブナ釣りが面白いと、ことあるごとに話していた。その時の楽しそうな表情が何度も頭に浮かんだ。

 その年の6月2日、高木監督は成績不振の責任をとる形で解任された。徳武定祐ヘッドコーチが後任として監督代行を務めたが不振打開には至らず、こちらもシーズン途中で解任。島野育夫2軍監督が監督代行となり、この年のドラゴンズは50勝80敗の5位でシーズンを終えた。

高木守道さん ©文藝春秋

「悲運のミスタードラゴンズ」。現役通算2274安打、369盗塁、盗塁王3度、ベストナイン7度、ダイヤモンドグラブ賞(現ゴールデングラブ賞)3度……。守道さんを語る時、その輝かしい成績と華麗なバックトスに代表される二塁守備、監督としては劣勢を挽回して巨人との10・8最終戦決戦にまで持ち込んだ手腕などがクローズアップされる。だが、私にはどうしても「悲運」の二文字を拭うことができない。

「人間の計り知れない力」を感じた守道さんの一打

 私を本当の野球ファンにしてくれたのは守道さんだった。巨人の10連覇を阻止した74年は、あの一打がなければ優勝が実現しなかったと今でも思っている。

 首位で迎えた10月11日の神宮球場でのヤクルト戦。残り5試合のドラゴンズは、この試合を引き分けても翌12日の大洋(現DeNA)とのダブルヘッダーに連勝すれば優勝だった。だが、敗れれば決着は14日の2位巨人とのダブルヘッダーに持ち越される。巨人はその前年に阪神との最終戦決戦を9-0と圧勝してV9を達成している。その記憶がまだ生々しく残っていたため、最終戦にもつれたら巨人にやられると、誰もが当たり前のように思っていた。

 ところがこの試合でドラゴンズはヤクルトが繰り出す松岡弘―浅野啓司の2枚エース継投を打てず、2―3と劣勢のまま9回も2死。走者を3塁に置いて打席に立った守道さんは執念の打撃で三遊間をゴロで破り、引き分けに持ち込んだ。

 当時中学2年の私は、プロ野球の八百長が発覚した1969年の黒い霧事件を境に野球に今ひとつのめり込むことができなかった。だが神宮球場の三塁側内野席でこの瞬間を見て、球場が揺れるのを肌で感じ、守道さんの執念の一打に人間の持つ計り知れない力を感じた。だから、私は今もこの仕事に就いている。

 翌日、ドラゴンズは大洋とのダブルヘッダーに連勝。しかし、この日に巨人は長嶋茂雄の現役引退を発表し、守道さんがもたらした20年ぶりのドラゴンズ優勝は少しくすんでしまった。さらにこの年は巨人の王貞治が2年連続で3冠王を獲得し、優勝チーム以外からは10年ぶりとなるセ・リーグMVPに選出された。攻守走でチームを引っ張り続けた守道さんは、生涯唯一といえる受賞のチャンスを逃した。