※こちらは公募企画「文春野球フレッシュオールスター2020」に届いた原稿のなかから出場権を獲得したコラムです。おもしろいと思ったら文末のHITボタンを押してください。
【出場者プロフィール】なりー(なりー) 東京読売巨人軍 22歳。北海道・網走北見地方出身の文化系ユーティリティープレイヤー。
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今年の夏、はじめて、十数年前に亡くなった祖父の墓参りをした。
そこは称名寺といい、函館山のふもとに位置している。函館でも2番目に古い寺院で、過去には新撰組の屯所や英仏領事館が置かれた。土方歳三の供養碑や、豪商の高田屋嘉兵衛の墓などもある。
祖父は共同墓地にいるようだ。境内にはかなりの高低差があり、坂道を登って向かう。
途中、ボールの形をした見慣れない墓石を見かけた。久慈、という字が一瞬見えた。
私はその時まで、函館という街をよく知らなかったことになる。
共同墓地からの見晴らしは素晴らしかった。函館湾が眼下に広がり、背後には山がそびえる。近所には外国人墓地もあり、祖父は話し相手に困らないだろう。
花を手向け、帰路に久慈氏の墓に立ち寄った。
どうやら久慈次郎という人の墓らしい。戦前に活躍した函館の野球人であり、試合中の送球が頭に直撃して帰らぬ人になった。野球人としてはなんとも劇的な幕切れである。
そして、千代台公園野球場のそばに銅像があるようだ。
40歳で亡くなった名捕手・久慈次郎
移動中に、久慈次郎について調べた。
盛岡市出身。早稲田大学を卒業後、函館水電で働きながら、函館太洋(オーシャン)倶楽部の捕手として活躍。5尺8寸とも9寸ともいわれる恵まれた体格で、チームを率いた。守備では送球の速さと正確さが売りで、盗塁走者は一人残らずアウトにする、と言われるほど。また、チャンスに強い中距離打者として主軸を打った。
1927年に函館水電を退社し、運動具店を経営する。
1931年と1934年には、全日本選抜の主将兼捕手としてアメリカ選抜と戦う。特に1934年には、当時17歳の沢村栄治や18歳のスタルヒンらとバッテリーを組み、ベーブ・ルースやゲーリッグといったMLBのレジェンドバッターと対戦した。
実はその年の3月、函館が強風火災に見舞われた。函館大火である。
罹災者は人口のほぼ半数にあたる約10万2000人で、死者は2166人。当時は低気圧の影響で最大瞬間風速39m/sを記録するほどであり、焼死者よりも高波による溺死者が多いことが特徴だった。被害金額は当時の貨幣価値で1億2000万円を軽く超える。
久慈にとって、1934年は激動の年だった。函館大火は3月21日に発生し、久慈の経営する運動具店も被害にあった。函館太洋は都市対抗野球の出場を辞退した。函館復興のさなか全日本に招聘され、日米野球を函館湯の川で開催することに奔走する。
そして、日米野球の後に、大日本東京野球倶楽部、現在の読売ジャイアンツへの参加を要請される。しかも主将として、である。他の選手への月給は100円台だったのに対し、久慈には500円だった。彼の初任給は40円だったから、かなりの額であろう。
しかし、久慈はこの誘いを直前で断ってしまう。復興の目処が立たない函館を去ることは、どうしてもできなかったからだ。大日本東京野球倶楽部は、久慈を欠いたまま発足する。
千代台公園を訪れた。野球場からは打球音と掛け声が響いてきた。
久慈の銅像は野球場の横、三塁側に鎮座していた。マスクはしていないが、捕手の姿。プロテクターはいかにも昔のもので、下の部分が股の間から垂れている。ユニフォームも大きめで、袖はだいぶ開いている。ミットは右打者への外角低めいっぱいであろうか。一体どんな投手をリードしているのだろうか。帽子にはオーシャンの「O」の文字。
そしてはたと気づくのである。ヘルメットをしていない、と。