観音様に願をかけた。左は投球で踏み込む足で、ヒザは下半身の粘りを支える。今季絶望どころか投手生命の危機だと思った。お願いします、上沢を返してください。上沢のピッチングをまた見せてください。こういうの初めてで勝手がわからないけど、じゃ、(下戸なんで)復活するまでコーヒー断ちします。僕は大のコーヒー党で、一日何杯も飲まないと仕事にならないんですよ。今日からはガマンします。帰ってくるまで何年でもガマンします。
勢いでそういうことにしてしまったが、下手したらもうコーヒーは一生飲めないかもなぁと思った。上沢の戦列復帰はカンタンじゃない。治るのも時間がかかるし、その後、きついリハビリが待ってるだろう。で、動けるようになった後も日常生活が送れたらいいってわけじゃない。プロ野球でプレーするのだ。それも投手といういちばんデリケートなポジションで。ただ単に投げるだけじゃなく、勝てる投球をしなきゃならない。こんなのとてつもなくハードルが高い。
上沢は整復固定の手術を受け、退院後は装具をつけて歩行していた。本人は明るく振舞っているんだけど、見ていて痛々しくてたまらない。気長に待つしかなかった。近所のスーパーでリプトンのティーバッグを買ってきた。最近のティーバッグは三角のやつがあるんだなぁ。これに慣れよう。紅茶で仕事できるようになろう。
思いが叶ったらもう勝ち負けは飛んじゃうんだ
年があらたまって2020年春のキャンプだ。上沢が2軍の国頭キャンプでブルペンに入ったとニュースになる。何だったかでキャッチボールの動画は見たけれど、ブルペンは驚いた。ヒザの感じはどうなのだろう。こちらも焦っちゃいけない。少しずつ球数を増やしていって、トレーニングの強度も上げていって、自分のペースで仕上げてくれたらいい。開幕なんて間に合う必要がない。
そうしたら何たることか開幕自体が遅れてしまった。コロナで2020年シーズンは中止かもしれなかった。上沢は「ウサギとカメ」のカメのほうだ。世界が停止してる間も歩みを止めなかった。実戦登板は6月2日の練習試合(ロッテ戦)、2イニング49球4被安打2失点。上沢が投げてる姿を見られただけで満足だった。それから練習試合と2軍戦で投げて、いよいよ1軍マウンドに復帰する日が来た。
2020年6月30日、ソフトバンク戦。これは今季、札幌ドームの「本拠地開幕戦」だった。ファイターズは練習試合から始まって、19日の開幕以降もずっと北海道を離れていた。コロナ対策で移動にともなう感染リスクを最小化するためだ。この日は朝からそわそわした。無観客試合であってもチームが「家」に戻るのは嬉しい。それもただ戻るんじゃない。上沢直之予告先発だ。僕はコーヒー豆を買いにいった。野球の神様ホントにありがとう。あれっ、お礼を言うのは浅草の観音様だっけ?
それでさ、復帰登板どうだったと思う? ケガ明け最初の1軍登板。ソフトバンク打線にメッタ打ち食らっても凹んじゃいけないぞ、武器になる球があれば満足するんだぞと自分に言い聞かせていた。テレビの前で腕組みだよ。とにかく緊張した。
そうしたら1球目、150キロのストレートだ。この1年というものが凝縮した1球。1回表は15球で三者三振だ。うおおおおー。オレは日ハム馬鹿だからさ、泣いた。涙がなぁ、ぽろぽろぽろぽろこぼれてきやがるんだ。ありがてぇ。こんな嬉しいことはない。ありがてぇ。上沢が帰ってきた。
378日ぶりの1軍マウンドは5イニング69球、2被安打1失点(勝敗つかず)。オレはさ、しびれた。結局、復帰後の勝利はその約1か月先(7月28日札幌ドーム、オリックス戦)まで持ち越しになるんだけどね、勝ち負けじゃないんだねー、野球は極限のところ。思いが叶うといいってずっと思いつめて、それが叶ったらもう勝ち負けは飛んじゃうんだ。
2020年シーズンは上沢直之のカムバックを見たんだよ。どんなことかわかる? これ以上ない最高だよ。今、思い返してもバンザイだ。最高のシーズンだったよ。
追記 最初は身もだえするほどつらかったコーヒー断ちですが、途中から紅茶もけっこう好きになり、最終的に愛飲しています。だからこれ、フツーに好きな飲み物が増えただけのことですね。ありがとうね、上沢投手。
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