2022年4月3日。本当に待っていた。もしかしたら、もう二度と帰ってくることはないんじゃないかと思ったこともあった。ついに、ZOZOマリンスタジアムのお立ち台に平沢大河が帰ってきた!

 過去2年間は故障に苦しみ、一軍からお呼びがかからないどころか、二軍でも打率.142(2020年)、.233(2021年)と成績不振。苦汁をなめになめて、もう苦汁が干からびるんじゃないかってほどになめ続けた平沢大河が2本のタイムリーヒットを放ち、球界の大エースへの階段を駆け足でのぼり始めた佐々木朗希と、期待のドラ1・松川虎生と並んでヒーローインタビューを受けたのだ。

 遅れてきたヒーローの登場に目頭が熱くなり、今シーズンこそマリーンズがパ・リーグの頂点をつかみ取るイメージが鮮明になったのはきっと僕だけじゃないはず。そして、その中心におぼろげながら浮かんできたんです。13という背番号が。

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松川虎生、佐々木朗希、平沢大河 ロッテドラ1トリオでお立ち台

ずっと続いていたヒールの時代

 思えば千葉ロッテマリーンズというチームはずーっと、ヒールが似合うチームだった。(ちょっとだけ昔話をします)

 僕は1980年に西武ライオンズのお膝元・東京都清瀬市で生まれ、ずっと清瀬市で育ってきた。小学生時代はライオンズ黄金時代の真っ只中であり、地元の小学生男子はほぼライオンズファン。みんな当然のようにライオンズの帽子をかぶっていたし、放課後はライオンズのリュックを背負って出かけたし、僕自身も「ライオンズ友の会」に入ってしょっちゅう西武球場まで応援しに行ったもの。もちろんロッテ(当時はまだオリオンズ)ファンなんて誰一人いなかった。

 ところが時代は流れ、僕が中学生だった頃にスーパースターだった秋山幸二が福岡ダイエーホークスにトレードされてしまうと、地元では一気にライオンズ離れが加速。みんな推しチームのない宙ぶらりんな気持ちになってしまった。

 それでもなんとなーく西武球場に通っていると、たまたま観戦したマリーンズ戦で、マリーンズファンたちの破天荒な悪行が思春期だった僕の心にドカーンと響いてしまったのだ。

 当時芝生だった外野席では「(マリーンズファンの)数が少ないなら密度で勝負だ!」と、ライブハウスばりに一箇所に密集して大声を張り上げ、まわりのゴミを拾う「クリーンタイム」では逆にゴミを撒き散らし、なぜか粉末洗剤やバケツの水を撒き散らしている人もいたり、もうメチャクチャ。記憶違いもあるかもだけど、少なくともおとなしくメガホンを叩くだけだった西武ファンとは全然違ったし、とりあえずヒールだったことは間違いない(笑)。

 だけど選手がヒットを打てばファンが「ひーらーい!」「ひーらーい!」などと大声で選手名をコールし、選手も塁上で手を上げて応える。「うわあああ、なにこれ! 選手とファンの距離がこんなに近いチームがあるんだ」と、激しくショックを受けたのを鮮明に覚えてるなあ。

 まわりの友人が尾崎豊やブルーハーツに衝撃を受けていくなか、僕はハチャメチャなのに一体感のあるマリーンズに心を揺さぶられ、気がつけばマリーンズ戦ばかりを見に行くようになってしまったのだ。

 さらに1995年にはボビー・バレンタインが監督に就任。シーズン後半になるにつれてチーム成績もグングン上がり、ファンのボルテージは最高潮に。結局この年の1位はオリックスだったけど、“がんばろうKOBE”を合言葉にマジック1までたどり着き、グリーンスタジアム神戸で迎えたマリーンズ3連戦。誰もがオリックスが神戸で優勝を決める完璧なエンディングを思い描いていたのに、マリーンズが3タテで蹴散らしたのは本当に痛快だったなあ。これで僕も完全にマリーンズのトリコとなり、ワルモノの一員になってしまった。

 シーズン2位からのパ・リーグ制覇とアジア一に輝いた2005年も、3位からの“下剋上”を決めた2010年も、ビジター球場の外野席を真っ黒に染めるファンの存在感も相まってやっぱり完全にヒール。シーズン勝率1位のチームからのヘイトを集めながら、こんなにも悪役を演じ続けた球団は他にないでしょ。

 ヒールであることは痛快でもあるんだけど、やっぱり正統派になれない歯がゆさが心のどこかにあるもの。シーズン終盤に「マリーンズが今年もCSをかき回しそう」という期待が寄せられるのは嬉しいけど、一生に一度は勝率1位でシーズンを終えて但し書きのつかない優勝を体験し、ヒールから脱却してみたい……。

 そんな道を切り拓く勇者になり得る存在が、やっぱり平沢大河なんじゃないかなあと考えてしまうわけなのだ。