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なぜ私はオリックスファンになったのか…まずは関西の“私鉄沿線事情”から説明しよう

文春野球コラム ペナントレース2022

2022/05/11
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予期せぬ来訪者

「お越しになられました」

 助教さんの案内で、わざわざ東京から博士課程の院生さんがやってきた。何でも、自分の研究の為に、インタビューしたいらしい。まあ、韓国の新政権も発足し、日韓関係にも動きが出てきているから、そういう人がいるのもわからないでもない。何たって、俺、日本の韓国政治研究の第一人者だしな(←大きな勘違い)。

 さて、ひとしきり挨拶を交わして、研究室の椅子に腰かけてもらう。狭い部屋なので助教さんや私が座るのは小さなパイプ椅子だけど、お客さんにはちょっとだけクッションの効いた良い椅子に座ってもらう。で、何を話したらいいのでしょうか。

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「オリックスファンとしての先生のお話をお聞きしたいと思います」

 え、何それ。聞いてないよ。

 てっきり韓国政治に関わるインタビューかと思ったら、何でも関西と九州のパリーグ球団を対象とした研究をしているそうだ。よく見ると、変わった帽子をかぶっているけど、ひょっとしてそれ「西鉄ライオンズ」じゃないのか。だとするとあかん、これはガチの奴や。

 で、何を話したらいいんやろ。助教さん、隣でケラケラ笑ってるけど、これひょっとしてはめられたんちゃうか。

 で、考える。自分はただのファンに過ぎないから、その視点そのものに学術的な価値がある訳じゃない。真面目な院生さんみたいだから、きっとちゃんとしたデータも持っているに違いない。だから適当な話をしてもきちんと裏を取ってくれるだろう。じゃあ気楽に話すか。

 以前にも書いた様に、自分が野球ファンとしてオリックスにまで到達したのには、それなりの「歴史」がある。そう最初は南海ホークスファンだった。70年代の初めの話である。

「私鉄沿線ごと」に区切られた、京阪神大都市圏

「東大阪のご出身ですから、南海沿線じゃないですよね」

 さすがによくわかっている。そう、東京大都市圏とは異なり、京阪神大都市圏では長らく、球団は鉄道会社の経営だった。

 阪神は勿論、阪急、近鉄、南海は全て鉄道会社であり、この地域での大手私鉄で球団を持っていないのは、京阪だけだった。

 当然の様に、各球団のフランチャイズ球場もその沿線にあった。甲子園球場、西宮球場、藤井寺球場、そして大阪球場は皆そうだ。だからこそ「xx電車ではよ帰れ」という定番のヤジも可能だった。

 そもそもJRが幅を利かす東京大都市圏と違って、京阪神大都市圏は「私鉄王国」とよばれた程、嘗ては鉄道会社が大きな力を持っていた。

 鉄道会社は球団だけでなく、沿線に遊園地を持ち、それぞれ所縁のある百貨店をも抱えていた。正月の初詣先すら沿線毎に違っていた。

 阪急沿線の人間は生田神社や湊川神社、京阪沿線は伏見稲荷、近鉄沿線の人々は春日大社他の奈良県内の社寺、南海沿線の人にとっては住吉大社あたりが各々代表的な初詣先だったろう。そう、京阪神大都市圏の人々の生活は、「沿線毎」に切り取られていたのである。

育ちは近鉄沿線だったが……藤井寺は遠かった

 勿論、私が育った地域もそうだった。駅前にはスーパーの「近商」があり、住宅地は「近鉄不動産」が開発していた。夏には川島なお美の水着姿のポスターがあちこちに貼られ、近鉄が観光地として開発した伊勢志摩に泳ぎに行った。旅行の予約をするのは、当然、「近畿日本ツーリスト」であり、遊園地と言えば「あやめ池遊園地」だった。

 もう身も心も、そして何よりも財布が近鉄グループに支配された状態である。

「何で近鉄ファンじゃなかったんですか」

 面倒くさいのはここからだ。甞ての近鉄バファローズの本拠地は藤井寺だった。

 しかし、この藤井寺、私が住んでいた近鉄奈良線沿線からはとてもつもなく遠かった。

 私鉄としては日本最大の鉄道網を誇る近鉄は多くの路線を持っており、奈良線沿線に住んでいた私が藤井寺にいく為には、一度、大阪市内に抜けてから地下鉄に乗り、そこからもう一度「南大阪線」に乗らねばならなかった。

 つまり、当時の私にとって「近鉄」は、スーパーも不動産屋も旅行会社も遊園地も近くにあったのに、球団だけはとてつもなく遠くにあったのである。

 その点、南海ホークスの本拠地であった大阪球場は難波にあり、電車一本で行けた。

「でも、当時は阪急の全盛期じゃないですか。応援しようとは思わなかったんですか。応援してたら先生のファン人生変わったと思いますよ」

 そうそこや。

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