生まれた時から野球が身近にあった。教員だった父は、野球部の顧問。幼稚園に入る前から、母と一緒に差し入れを持って練習を見に行った。春の甲子園が始まれば、和歌山に住む父方の祖父が、全試合観戦のために当時の大阪の家に泊まりに来る。幼稚園に入ると、一緒に行くようになり、人生最初の野球観戦は、1978年春の甲子園準々決勝である。甲子園の芝の緑と、満員の観客席が目に入った瞬間は、今も忘れられない。その後は関西人として、高校野球と阪神タイガースをこよなく愛し、応援してきた。

“西崎投手が大投手になるまで応援しよう”と泣いて誓い合った日

 そんな私がファイターズに興味を持ったのは、ひとえに西崎幸広投手による。京都の中高一貫の女子校に入り、テニス部に所属した。高1の先輩が西崎投手の大ファンで、私が野球好きと知ると、「西崎さんは瀬田工出身やねん。関西人として応援しよ!」と、ことあるごとに西崎投手やファイターズの話を持ちかけられるようになった。

 西崎投手は1年目から頭角を現し、阿波野秀幸投手と、言わずと知れた球史に残る新人王争いをする。先輩はその緊張に耐えかね、「パ・リーグには興味がないけど野球好き」の後輩に西崎投手の応援を勧めるようになった。西崎投手は、確かにカッコよかった。そして3球団1位指名の阿波野投手が「新人王間違いなしの即戦力」と言われるのに対し、西崎投手は外れ1位。苦労人に惹かれる私は、さらに熱心に西崎投手を応援するようになった。

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 両投手15勝でシーズンが終了し、運命の日。今思い出すと面白いのは、ドラフト会議、新人王やMVPなどが決まる日、選抜出場校発表の日など、野球関係の重要な日は視聴覚教室が開放され、テレビ中継が放映されていたことだ。新人王には阿波野投手が選ばれ、先輩は号泣。みんなもらい泣きをし、誓い合った。西崎投手が大投手になり、「あの年の新人王には、西崎を選ぶべきだったね」と言われるようなるまで応援しようと。

 私は気持ちを行動で表すため、「ベースボールマガジン」を買い、ファイターズのファンクラブに入った。そう、私が自らの意志でお金を出し、人生で最初に所属したのが、ファイターズのファンクラブなのである。

西崎幸広 ©文藝春秋

 一方、クラスには、ライオンズの渡辺久信投手と、阪急ブレーブスの星野伸之投手のファンがいた。当時は、阪急、南海、近鉄と、パ・リーグの半分が関西を本拠地としていた。さらに幸いなことに、星野投手ファンの友人のお父様の勤務先が西宮スタジアムの、叔母の勤務先が大阪球場の、年間シートを持っていた。当時、関西人でファイターズに興味がある人はごく少数、要するにチケットをいただけたのである。

 初めてファイターズの試合に行った日、観客があまりにも少ないことに衝撃を受けた。しかし試合開始後3回ぐらいだろうか、友人に「左側の斜め後ろ見て?」と囁かれた。振り返ると、なんとそこに西崎投手と津野浩投手がおられる。驚愕する私に、友人は「これぐらい観客が少ない日は、ベンチ入りしていない投手がスタンドで観はるねん」と自信満々に解説してくれた。その後も西宮スタジアムの観客席で、何人ものファイターズの投手を間近に拝見している。