「テルアビブ・ロッド空港事件」の実行犯の一人、元日本赤軍の岡本公三容疑者(78)が、亡命先のレバノンで7月23日に死亡したことをパレスチナ解放人民戦線が発表した。
「テルアビブ・ロッド空港事件」とは、1972年5月、岡本容疑者ら3人がイスラエル・テルアビブのロッド国際空港で自動小銃を乱射、手榴弾を投擲し、死者24人を含め100人を殺傷した事件だ。実行犯のうち2人は事件現場で死亡し、生存した岡本容疑者は、その後、日本に引き渡されることなく、今日に到った。
その身柄引き渡し交渉の内幕は、『文藝春秋』の連載「外事警察秘録」で詳しく語られている。筆者は、元国家安全保障局長の北村滋氏である。
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1997年2月、中東レバノンで国際手配中の日本赤軍メンバー5人(和光晴生、足立正生、山本万里子、戸平和夫、岡本公三。外事警察では「レバノン5」と呼ばれている)が、一斉に拘束される。5人の中には1972年の「テルアビブ・ロッド空港事件」実行犯の生き残りである岡本が含まれていた。
当時の警備局の様子を少し説明しておこう。
前年1996年12月17日に発生し、膠着状態にあった在ペルー日本大使公邸占拠事件の対応の真っただ中にあった。
当然、外事課国際テロリズム対策室(公安第三課調査官室、外事第二課の後身で、現在の外事情報部国際テロ対策課の前身)の主力は折田康徳室長(後に九州管区警察局長)以下、リマの現地対策本部に張り付きの状態が続いていた。
「レバノンで潜伏中の日本赤軍5人一斉に身柄拘束」との第一報が入ったとき、警備局はそんな状況だった。
「ベイルートに飛んでくれ」
一報をもたらしたのは在レバノン大使館に出向していた清全領事兼一等書記官(後に静岡県警警備部長)であった。
私は、米村敏朗外事課長(後に警視総監・内閣危機管理監)と国際テロリズム対策室の大部屋にいた。前年外事課から警備企画課理事官に異動。局全体の庶務的な事務に当たっていたが、その当時は、当面、ペルー事件対応のバックアップを仕切っていた。しかし、米村課長からは手が空いているように見えたのであろうか。私にこう言った。
「北村、杉田和博警備局長(後に内閣官房副長官)には僕から了解を取るから、ベイルートに飛んでくれ。ここにいる好きな人間を連れていっていいから」
何をすべきか、言わずもがなであった。最精鋭3名を同道したのは言うまでもない。
2月15日に成田を発ち、16日未明に現地入りした。
18日に拘束のニュースが我が国で報道されると、私たちは連日カメラの放列に追い回されることになる。就中、アラビア語紙の扱いは大きく、アラブ世界の関心の高さをうかがわせた。一方で、特に秘匿行動が原則であるはずの外事課国際テロリズム対策室の赤軍ハンターと私は、サングラスをかけた顔をアラブ世界に曝された。レバノン当局が同行していたとはいえ、状況次第では後にテロのターゲットとなりかねないという懸念も生じた。
「レバノン5」の身柄引渡しには、いくつかの障害があった。




