〈売れるということ程、素晴しいことはないんだよ〉。80年代初頭、若いアイドルが続々と誕生する。ジュリーは、「ライバルはトシちゃん、マッチ、聖子ちゃん」と言いながら、走り続けた。

写真=横木安良夫

 電飾のついたミリタリースーツに、パラシュートを背負ったジュリーが「TOKIO」を歌って幕を開けた1980年は、暮れのニューヨークでジョン・レノンが射殺される年である。豊かさが極まるバブルのイントロが聴こえる3月、21歳の山口百恵は三浦友和との結婚と引退を発表し、4月に3歳年下の松田聖子が「裸足の季節」でデビューした。その生き方までが若い世代に大きく波及していく女性のロール・モデルの登場は、時代の変わり目を予告するものであった。

 TBSの遠藤環が、人気歌謡番組「ザ・ベストテン」のディレクターに就いたのは、ちょうどこの年の秋だった。松田聖子が2曲目のシングル「青い珊瑚礁」で初の1位に輝き、「お母さん〜」と泣いたのに涙は出ていないと言われ、「ぶりっ子」と騒がれた9月18日が、初演出の回。「酒場でDABADA」でランクインした沢田研二を番組に迎えるのは、そのひと月ほど後のこととなる。

 大学時代にザ・タイガースのヒット曲を耳コピしてギターを弾いていた遠藤にとって、3歳しか離れていなくともジュリーは出会った時から近づき難い大スターで、他の歌手とは一線を画す存在であった。はじめてスターを見たのは、79年が終わる頃だ。仕事が終わった早朝4時頃、師匠と慕う演出家の久世光彦が沢田を主演に撮る、「源氏物語」のスタジオをのぞいたのだ。遠藤が語る。

「明け方まで仕事をしているなんて今では考えられませんが、沢田さんが多忙だったこともあってその時間になっていたんです。さすがにスタッフは疲弊し、いつもは騒がしいスタジオも静かでした。そんな雰囲気を感じたのか、沢田さんが突然『さぁ、あと少しだ、頑張って行こう!』と鼓舞するように叫んだんです。みんな驚いて、3秒くらい間があってから、ぉぉ〜って。小さなレスポンスに笑いましたが、若いADであった僕は、自分が主役であることを自覚する強烈なリーダーシップに、凄く感動しました」

新婦を奪っていく役を

 78年にスタートした「ザ・ベストテン」は、曲のランキングによって出演者を決定する日本で初の歌謡番組である。その時に視聴者が聴きたいものをストレートに反映した生番組で、まだ年功序列が残っていた歌手の縦社会の風景を一変させ、曲の寿命を早めたとも言われている。司会の黒柳徹子と久米宏のトークが人気で、豪華なセットにも注目が集まって、平均視聴率は30パーセントを優に超えていた。

「セット率が高かったのは、やっぱり、沢田さんと百恵さん。僕がやってからは聖子、田原俊彦、近藤真彦、中森明菜ですが、演出家としては沢田さんはセットで見せたくなるんですね。テレビを意識した表現をするので、セット映えするんです」

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source : 週刊文春 2022年8月4日号