本連載初の書籍化となる『泥沼スクリーン これまで観てきた映画のこと』がついに発売された。それに合わせて、前回から連載初期に扱った作品を改めて取り上げている。
今回は『吸血鬼ゴケミドロ』。第六回に掲載された作品だ。そして、個人的にはとても印象深い回でもある。
連載開始にあたり編集部に言われたのは「旧作の日本映画への偏愛を存分に書いてほしい」というものだった。依頼を受けはしたものの、はたと困った。というのも、それまで「一人称で文章を書かない」ことを「研究家」としての矜持としてきたからだ。あくまで記すべきは研究成果である「事実」「分析」のみ。自分自身の想いを述べたり、自分自身を登場させたり、ましてや「偏愛」を吐露したり。そんなことはもっての外だった。そのため、何をどう書けばいいのか全く分からなかった。初代担当編集者から毎回のように何度も書き直しを指示され、ヘトヘトになりながらようやく辿り着いたのが、この第六回だった。
そして、半ばヤケクソになって取り上げた『ゴケミドロ』の原稿が担当に思わぬ好評だったことで、「これなら行けるんじゃないか」という感触を初めて得ることができた。その時に書いたのは、映画そのものというよりは、それを観た場末の名画座の光景とその時の自分の心情。ひたすら劣等感に苛まれていた十代、場末の閑散とした路地のどん詰まりにある名画座だけがホッとできる居場所だった――というような内容だった。これに手応えを感じ、以来、自身の経験と映画の内容をオーバーラップさせることで「偏愛」を表現することにした。
そして、『ゴケミドロ』はそんな場末で観るにはピッタリの作品だった。ハイジャックされた旅客機が謎の光源体と接触して操縦不能になり、何もない荒野に不時着するところから物語は始まる。ハイジャック犯は逃走するも、スライム状の吸血宇宙生物が脳に侵入、意識を支配されて生存者たちに襲いかかった。
これだけなら、ただのB級ホラーだが、本作はここからが一味違っている。救援の見込みもなく、水も食料も尽きていく中で怪物に襲われる――という状況にあるにもかかわらず、生存者たちはサバイバルのために団結することはなく、互いのエゴを貫いて自滅していくのだ。どこにも救いはないし、カタルシスも得られない。そこが素晴らしい。
本のタイトルの通り、それはまさに「泥沼」のスクリーン。「光輝く銀幕」とは対極にある、すえた臭いの漂う暗黒の世界だ。でも、その泥沼の温度が、筆者にはちょうどいい心地よさを与えてくれる。