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「日本人の理想の家庭像」を体現した皇太子ご一家

 こうした姿勢は、戦後の象徴天皇制の展開のなかで育ってきた文仁親王だからこそのものであったと思われる。「人間天皇」のアピールと明仁皇太子人気、その後のミッチー・ブームなど、戦後の天皇制は「象徴」として国民との関係性が重要視され、またその関係性のなかで「象徴」の内容は確立してきた。そして、皇室、特に皇太子一家が若い「日本人の理想の家庭像」を体現することになり、文仁親王はその家族の一員として、「戦後民主主義」を重視する両親の背中を見て育ってきた。しかも、明仁皇太子の次男として、比較的自由な青年時代を過ごしてきたことで、兄の徳仁親王以上により自由な発言ができるような性格に育ったと思われる。

美智子さま、礼宮さま、浩宮さま(当時) 宮内庁提供

「弟宮」と呼ばれる皇族

 また、弟宮と呼ばれる皇族などが発言してきた歴史もある。昭和天皇の弟である秩父宮、高松宮、三笠宮は、天皇が立場上なかなか自分の意思を表明したり、意見を述べたりできないのに対し、敗戦直後などにはかなり自由に発言を展開している(河西秀哉「戦後皇族論」同編『戦後史のなかの象徴天皇制』吉田書店)。おそらく、天皇という責任ある立場からは少し離れていること、そしてそうなることを生まれながらに求められている存在とは異なり自由に育てられたことなどが理由として挙げられるだろう。

三笠宮ご夫妻ご結婚満70年に際して 宮内庁提供

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 たとえば、民主主義を後退させる風潮に対して、秩父宮や三笠宮はそれに抗するような発言をしている。高松宮は記者などに対してフランクに話すことで、「人間」的な皇族像を定着させてきた。とはいえ、そうした発言が軋轢を生むこともあった。三笠宮の発言が政治的だと見られ、批判を浴びることもあった(河西秀哉「三笠宮の『史学会発言』と社会」高木博志編『近代天皇制と社会』思文閣出版)。その長男である寬仁親王の一連の発言も、社会のなかで波紋を広げることが多々あった。そうした戦後の流れのなかで、次第に皇族の発言は抑制されつつ、しかし時折発言がなされてきたものと思われる。その微妙なバランスのなかに皇族はいた。