締め切りを過ぎた作家・五味康祐と深夜に一局
観戦記者は、棋戦担当者や元奨励会員、将棋雑誌の編集者からライターに転進するひとが多い。だが、高橋さんは元々、週刊誌の編集者だった。観戦記者としてデビューしたのは、1976年。40歳を過ぎてからだった。
大学在学中から光文社で働き、1958年に女性週刊誌『女性自身』が創刊される。特集班から連載小説の係に異動し、「将棋ができるから」という理由で担当した作家が、将棋好きの五味康祐だった。当時はファックスやメールがないから、原稿を作家の自宅に取りにいくのが当たり前。締め切り間際になると毎週、泊りがけになった。
「五味さんの遅筆は、生易しいものじゃない。『喪神』で芥川賞を受賞したときに、たった400字の受賞の言葉が書けずに印刷所までいってギリギリで書いたほどなんだから(笑)。毎週、五味さんの自宅で原稿を待つときも締め切りはとっくに過ぎているんだけど、深夜の2時か3時に『気分直しに一番やるか』と将棋を指しましたよ」
1963年に知り合ったのが山口瞳。山口がプロ棋士との駒落ち戦をつづった『血涙十番勝負』は名著として知られ、高橋さんもそれで将棋界の仕組みを知った。
1974年、高橋さんは作家の裏話を集めた月刊誌『噂』の編集長を経て、フリーライターになる。その翌年にちょうど始まったのが、『失楽園』などで知られる渡辺淳一の自宅で月に1回行われる将棋の会。高橋さんはそこに通ううちに、『週刊文春』が主催していた将棋棋戦「名将戦」の担当者から観戦記を依頼されて、将棋の世界にどっぷりと浸かることになる。