サラリーマンだと升田幸三は社長になれないでしょう
戦後の将棋界は、第一人者が木村から大山に移り、その大山から覇権を奪ったのが中原誠である。1976年ごろは中原最強時代で、いくつものタイトルを独占していた。
編集者やライターとして、様々な現場や人間を見てきた高橋さん。初めて足を踏み入れた将棋界は、どんな風に見えたのか。
「棋士は職人の世界で、タテ社会だと思いました。白黒がはっきりつくから言い訳が利かないし、どんな変てこな人間でも勝てばいいんだからね。サラリーマンだと、升田幸三みたいな強烈な個性の持ち主は社長になれないでしょう。また、当時は内弟子(師匠の家に住み込んで修業時代を送ること)を経験した棋士も多くて、上下関係がはっきり残っていましたよ」
対局中にずっと歌っていた米長さん
だが、厳しい実力制と裏腹に、対局室はにぎやかだったようだ。
「いまの棋士は『お願いします』と対局が始まったら、ほとんどしゃべらなくて静かでしょ。でも当時は、のんびりした時代なんです。午前中はよくしゃべっていたし、大山さんも自分からよく話しかけてきた。米長(邦雄)さんなんか、ずっと歌を歌いっぱなしていたこともあったよ」
高橋さんは将棋好きだったとはいえ、当時もいまも、将棋の定跡書はほとんど読んだことがない。プロの攻防を理解するには骨が折れたが、そのときに『噂』の人脈が役立った。
「『噂』の部下が競輪にハマっている人間でね。そいつが競輪仲間の芹沢博文九段と仲がよくて、それで私も付き合って将棋の世界を教わるようになったんだ。あるとき、花村元司九段の将棋を観戦していたら、芹沢がやってきてね。『高橋さん、そんなに真剣に見なくていいよ。花村先生は腰掛け銀だけど、そのうちめちゃくちゃになるから』といってくるし、花村さんは『めちゃくちゃとはひどいな』って返していた(笑)。
芹沢は木村名人にかわいがられていたそうです。奨励会のころ、『どうやったら将棋は強くなるんですか』と恐る恐る名人に聞いたら、『バカなこと聞くんじゃない。酒飲んででバクチをして女遊びをしていれば、八段にはなれる』って。遊んでダメになるようじゃ修業が足りない、という意味なんだね。芹沢は、その三つを実行して八段になったけれど、『理論派の巨匠』といわれるくらい将棋の勉強もした。当時のトップ棋士は遊び心も旺盛だったんですね」
芹沢は中原の兄弟子で、A級2期、B級1組19期の実績を残した。辛口の将棋評論で知られ、クイズ番組「アイ・アイゲーム」のパネラーとしても活躍したが、1987年に51歳の若さで亡くなっている。