読後、いや既に読中に抱いていた感情がある。

「うーらーやーまーし……」

 そう、羨ましくて仕方なかった。巨額の遺産、でも目をくらませるほどお馬鹿じゃない主人公弦矢の器、お屋敷での恵まれた日々、そして英語と日本語で織り成される海外での交流……。巨大スーパーを日本呼びではなく「コスコ」と言っているのさえ羨ましかった。弦矢は日本人、私も日本人、同じ島国で生まれて何故こうも違ったのかを真剣に考えたほどだ。答えは簡単、私が英語の勉強を放棄し、英語も私を見放したからだが。

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 僭越ながら高校生の時、学校の海外研修旅行(有料)でボストンに行った。寮生活、アメリカ人の先生が引率する遠足、カタコトでも真剣に聞いてくれるユダヤ系アメリカ人のボランティア学生……完全にお客様扱いで観光メインだったが、海外での暮らしはこんなにも明るくて充実しているものなのかと衝撃を受けた。英語を学べば大人になっても海外で楽しい事が待っていて……などと甘い夢を見ていた。しかし現実は私の向学心と学習能力を容赦なく攻撃し、気づいた頃には「英語学部卒の英語挫折者」が出来上がっていた。

 私の話はここまでにしておこう。この本は私の羨望の対象でもある弦矢が、敬愛している叔母の菊枝の半生を垣間見るという内容だった。菊枝の自由さと大胆さの中に秘められた信心深さや繊細さの「幅」が色濃く描写されている。夫から娘を引き離すために、犯罪ともとれる行為を躊躇なく行い、その後も平静を保ったまま生活し続ける強さもあれば、一方で、娘への想いを園芸で表現するしかできない弱さもある。絶対に暴かれてはいけない秘密を守ることに人生の約四割を費やし、愛と嫌悪の間で揺れながらも伴侶をみとる女性、菊枝。恐らく彼女がここまで大胆で繊細という両極端の性分を保てるようになったのは、本人の素質もあるだろうが、アメリカという土地が影響したようにしか思えない。

 日本生まれの女がアメリカへ嫁ぎ、アメリカ人の夫との間に子供をもうける。しかしその幸せが歪んだ時に被る喪失は女の方が大きいだろう。(大きな声じゃ言えないが)悲しいかな、女は今も昔も弱い立場に追いやられる機会が男よりきっと多い。菊枝はそれを熟慮していた。しかし、菊枝はオルコット家の草花と秘密の誓いを交わし、励まし合いながらひた向きに生きた。草花も、レイラも、冷凍庫の中のスープも、菊枝の「祈りの化身」として、これからも生き続ける。ああ、菊枝のスープが飲みたい。

みやもとてる/1947年兵庫県生まれ。77年「泥の河」で太宰治賞、78年「螢川」で芥川賞、87年『優駿』で吉川英治文学賞を受賞。2009年『骸骨ビルの庭』で司馬遼太郎賞を受賞。他の著作に「流転の海」シリーズ、『海岸列車』『水のかたち』などがある。

 

だんみつ/1980年秋田県生まれ。タレント。映画『私の奴隷になりなさい』(12)、『甘い鞭』(13)で主演。著書に『壇蜜日記』など。

草花たちの静かな誓い

宮本 輝(著)

集英社
2016年12月5日 発売

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