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小説の中に出てくるがんは、意識して出しています

――『どれくらいの愛情』の次に幼馴染みの男性二人の人生を描く『永遠のとなり』(07年刊/のち文春文庫)があり、女性主人公の『心に龍をちりばめて』(07年刊/のち新潮文庫)があって、小説というより声明文のような『この世の全部を敵に回して』(08年刊/のち小学館文庫)が出ます。『この世~』は既成の価値観を疑問視しつつ、世の中の暴力や戦争を否定し、批判する内容で、思想表明の書でもありましたね。

心に龍をちりばめて (新潮文庫)

白石 一文(著)

新潮社
2010年10月28日 発売

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この世の全部を敵に回して (小学館文庫)

白石 一文(著)

小学館
2012年4月6日 発売

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白石 『どれくらいの愛情』が直木賞に落選した時に、担当編集者の山田憲和さんと話して、次の作品で受賞しようと考えたんです。直木賞をもらうために書いたのが『永遠のとなり』でした。自分自身のことをすこし出したんですよね。その頃は福岡にいたので、福岡を舞台にしてこてこての博多弁の主人公を登場させ、作りは地味なんだけれど私小説的なリアリティをそれまで以上に追求しました。さあ、どうだ、これなら選考委員も文句ないだろうと。そういう点で、まだまだ十二分に高慢ちきだったと思いますね。

 そうしたら候補にもならなかったのですごく驚いて。それもあって東京に戻りたくなったんです。『永遠のとなり』までで福岡のことはほぼ書きつくしたので、東京に戻ろう、と……。

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永遠のとなり (文春文庫)

白石 一文(著)

文藝春秋
2010年3月 発売

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 だけどお金が全然ないわけです。ちょうどその頃に小学館の石川和男さんがたまたまうちに来てくれたので「とにかく東京に帰りたいから小学館のお金で部屋を借りて下さい」って頼んだんですよね。そうしたら、石川さんは本当に部屋を捜してくれて、一週間くらいしたら物件の間取り図が何枚もファクシミリで送られてきた(笑)。それで東京になんとか戻ることができたんです。ただ、さすがにそこまでお世話になったら石川さんのために何か書かなきゃまずいじゃないですか。

――え、あの問題作を、そんな動機で?

白石 (笑)。その前に講談社の国兼秀二さんと奥村実穂さんから創立100周年の書き下ろしというのを頼まれて、引き受けちゃっているわけです。それを知らん顔して小学館から先に長いものを出すのも申し訳ないし、だったら今まで自分が考えてきたことをそのまま書こうと。それが一番手っ取り早いでしょう? で、書いたんです。

 まあ、『どれくらいの愛情』を書いて、作家を辞めようと一度は思って、直木賞というニンジンが目の前にぶら下がったのでまた筆を執って、そうこうしているうちに、自分の頭の中を整理しなきゃっていう気持ちがあったんです。だからあれは、小説とも言えないような小説ですけれど、書いて本当によかったですね。ひと月くらいで一気呵成に書きました。あの作品はひそかに自分の代表作だろうと思っています。

――その講談社の100周年の書き下ろしというのが『この胸に深々と突き刺さる矢を抜け』(09年刊/のち講談社文庫)で、これは山本周五郎賞を受賞しましたね。大作でした。

この胸に深々と突き刺さる矢を抜け 上 (講談社文庫)

白石 一文(著)

講談社
2011年12月15日 発売

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この胸に深々と突き刺さる矢を抜け 下 (講談社文庫)

白石 一文(著)

講談社
2011年12月15日 発売

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白石 あれは書きたかった。ずいぶん昔からタイトルも決めていました。

 みんながごく当たり前に、たとえばドラッカーやフリードマンを読んで、この社会はどうだこうだと言っているじゃないですか。それに関しての自分の考えってものをどうしても述べておきたかった。だからやたらに引用が多くて1000枚くらいになっちゃったんです。その引用も専門書からではなくて、フリードマンの場合なんてアメリカの『プレイボーイ』でのインタビューから引いています。優れた学者の人たちが一般の人たちにも分かるように噛み砕いて語る時って、案外、自分の考えのコアな部分がむき出しになるんです。

 私、ミルトン・フリードマンの考え方というのは、当時まったく受け付けなかったんです。今もちょっとそうなんですけれど、「なんでそんなにもてはやされているんだろう?」というのがずっとあったんですよね。フリードマンの説く市場原理主義というのは、言ってみれば共産主義に対する強力なカウンターパートなんですよね。イデオロギーとしての共産主義を相手に自由世界が戦う時に本当に頼もしい理論なんです。だけど、近代経済学の流れで見れば、市場原理主義というのはとっくの昔に否定された理論じゃないかという思いがありました。ただ、フリードマンの伝記などを読めば、彼がどうしてあんな極端な思想を語るようになったのか、その理由がとてもよく分かる。そういったことについて自分なりに何か言いたかったんです。

――小説内でそうした思索をめぐらす主人公は編集者の敏腕編集長で、数々のスクープを生み出してきた男性。がんを患っているんですよね。

白石 あの頃から、作品のなかに必ずがんという病気が出てきますよね。意識して出すようにしています。黒沼さんのこともありますし、父のこともそうだし、他にもたくさんのがん患者を見てきました。たとえば『がん患者学』(中公文庫)を書いた柳原和子さんとも割り合い親しくて、文庫の解説も書きましたし、最後の対談もしました。柳原さんも致命的だといわれたがんから10年もサバイブしたんですよね。でもやっぱり、あれだけ頑張ってもなかなか厳しかった。

 目を凝らさなくても、がんの人はまわりにいっぱいいるじゃないですか。現代における不可欠な事象というんですかね、もちろん自分にも起こりうることですし。でもがんって診断されてから死ぬまでにたっぷりものを考える時間があるでしょう。それが恩寵だという人もいれば、かえってつらいという人もいる。まあ、見方はそれぞれですよね。だからこそいろいろ勉強したんです。若い頃から、何か知りたいことがあれば、いろんな本を読んでひととおりのことを勉強するのが癖になっているので。がんの本も読めば読むだけ何か手がかりとか実践的な治療法みたいなものが見つかるんじゃないかと思ったんですが、10年以上も読みつづけて分かってきたのは、がんという病は、その病だけを見ていても何も分からないということでした。なぜがんになるのかも、なぜ奇跡とも思えるような治癒が起こるのかも。

 自分ががんになった時にどうしたらいいか今でもはっきりとは分からないですね。それでも『神秘』(14年毎日新聞社刊)という、末期すい臓がんの男性を主人公にした小説を書いたんです。あれは私にとってすごく大切な小説で、分からないとはいえども、しかし、少なくともこうしたほうがいいよというのがある程度分かった気がしたから書いた作品なんです。

神秘(上) (講談社文庫)

白石 一文(著)

講談社
2016年4月15日 発売

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神秘(下) (講談社文庫)

白石 一文(著)

講談社
2016年4月15日 発売

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