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子供の心臓を摘出し、トレイに乗せて体外で手術……心臓外科医のリアル

茨木保が『鼓動が止まるとき』(スティーヴン・ウェスタビー 著)を読む

2019/02/18
『鼓動が止まるとき』(スティーヴン・ウェスタビー 著/小田嶋由美子 訳/勝間田敬弘 監修)

 心臓外科医は医者の中で最も極限に挑んでいる人種であろう。本書の著者の言葉を借りると「道理をわきまえた普通の若者は、人の胸を切り裂き、心臓を止めた上で開いて修理すると考えるだけですくんでしまう」ものだ。これはそんな因果な仕事を四十年近く続けた医師の自叙伝である。著者のスティーヴン・ウェスタビー氏は一九四八年生まれのイギリス人。植え込み型人工心臓手術のパイオニアであり、生涯に一万二千回以上もの手術を手掛けた名医だ。

 本書には数々の興味深い症例が登場する。心臓が右にある右胸心(内臓逆位)の男の子、五度も開心術を要した心臓腫瘍の女性、人工心臓で七年の人生を追加された精神科医、胎児を子宮に抱えたまま人工心肺手術を受ける妊婦……いずれもドラマチックなエピソードばかり。その描写も現場を知る医師にしか表現できないリアリティーに満ち、小田嶋由美子氏の自然な邦訳に導かれ、読む者をグイグイと引き込んでいく。

 私は産婦人科医の傍ら漫画家をしているので、時々医療漫画や医療ドラマのプロットの相談を受けるのだが、制作者からしばしば要求されるのがドラマを盛り上げるアクロバティックな手術である。手塚治虫氏の『ブラック・ジャック』は医療漫画のバイブルだが、本書の右胸心の手術を読みながら私がまず思い浮かべたのが、この漫画の内臓逆位の話だ。人体の構造が頭の中にしみ込んでいるブラック・ジャックは左右逆転した臓器の患者の手術に戸惑う。そして術野に鏡を立てて、それを見ながら手術をするのである。

 私は学生時代、内臓逆位の遺体の解剖を見たことがあるが、当時は人体の正常構造が自分の頭に入っていなかったので、その特異さがわからなかった。しかし経験を積んだ医師の脳内には臓器の3Dイメージが焼きつけられているものだ。ウェスタビー氏も右胸心の手術に戸惑うのだが、そこで彼が行った手術はブラック・ジャックよりも奇想天外……子供の心臓を摘出し、トレイに乗せて体外で手術し、その後、元の位置に戻したのだ。事実は漫画よりも奇なりである。しかしラストには壮絶な悲劇が待ち受ける。本書が医療ドラマと異なる点はハッピーエンドで終わる話が少ない点だが、これが現実なのだ。

 私は若い頃、人工心肺下の手術で停止した心臓を見て「なぜ心臓が止まっているのにこの患者は生きているのだろう」と、素人のように思ったことがある。それは実に奇妙な光景であるが、心臓外科医はこの究極の非日常を生きているのだ。二〇一六年に手術から退いた著者は、今後、幹細胞による心臓の再生医療と新しい人工心臓開発のプロジェクトに入るのだという。極限状態に挑み続けた彼はそれに飽き足らず、極限を超える闘いを始めたのだろう。心臓外科医とはつくづく因果な仕事である。

Stephen Westaby/1948年生まれ。世界的に有名な心臓外科医で植え込み型人工心臓手術のパイオニア。35年のキャリアの間、いくつもの英国最高峰の病院で働いた。BBCのドキュメンタリー番組で取り上げられたこともある。

いばらきたもつ/1962年生まれ。医師・漫画家。著書に『まんが 医学の歴史』『まんが 人体の不思議』『がんばれ! 猫山先生』。

鼓動が止まるとき

スティーヴン・ウェスタビー,小田嶋 由美子(翻訳)

みすず書房

2018年12月4日 発売