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連載『めちゃイケ』、その青春の光と影

「岡村さん、『めちゃイケ』…終わります」 片岡飛鳥が“22年間の最後”を決意した日

フジテレビ・片岡飛鳥 独占ロングインタビュー#2

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「ディレクターに俺はなる」と思った高校時代

<そうして約半年間にわたる「シュウ活」という名のカウントダウンで盛り上げ、最終回は完全新録の5時間を超える「祝活スペシャル」。ビートたけしや明石家さんまも登場し、最後はメンバー全員の祝辞で『めちゃイケ』はおよそ22年間の歴史の幕を閉じた。
 フジテレビの演出家として、『ウッチャンナンチャンのやるならやらねば!』(1990年)、『とぶくすり』(1993年)、『めちゃ×2モテたいッ!』(1995年)、そして『めちゃイケ』(1996年)と、お笑い畑を歩んできた片岡飛鳥。彼はそもそもどんな経緯でテレビの世界に身を投じたのだろうか。>

 子供の頃からテレビは大、大、大好きでした! 基本的には僕らの世代はドリフで育った。あえて大ファンとして敬意を込めて呼び捨てにしますけど、“志村”、“加藤”、最高だった(笑)。でも、高校に入学した1980年に『THE MANZAI』が始まった。もう「何、これ?」ですよ。漫才は知ってる。でもそれとは明らかに違った。ローマ字で「MANZAI」というのか…って。で、高2で『オレたちひょうきん族』、高3で『笑っていいとも!』が始まる。“志村”、“加藤”に続いて、“たけし”、“さんま”、“タモリ”にやられるんです。だから結局、「楽しくなければテレビじゃない」のフジテレビにしてやられたんでしょうね。16~18歳というカルチャーに対してもっとも敏感だった時期に、ドドドっと刺さって来た。

“てれびのスキマに負けない”異常なテレビっ子だったという片岡

 それで17歳の秋に親に「テレビのディレクターになる」って言った記憶があります。当時、僕はまあまあ進学校に通っていたんですよ。当然のようにみんな勉強しなきゃって雰囲気だったんですけど、テレビが面白すぎてテレビに夢中だったからテレビを見る時間が削れないんですよ。うちは別に裕福でもない中流家庭だったんですけど、何もいらないからビデオデッキだけは買ってくれって頼んで、その頃何十万円もしたんじゃないかな? どんなお金持ちの友達よりも先に留守番録画の環境を持っちゃって、ますますテレビが止まらない。1回見て終わればいいのに、2回も3回も見ちゃう。うちの親もそんなに勉強しなさいって言うタイプではなかったんですけど、さすがに後ろめたくはあったんです。

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 でも、ある時発想を換えてみたら、パーッと目の前が晴れたんです。「あ、これを仕事にすればいいじゃん!」って。そしたら大学はどこに行こうが、最終的にテレビ局に入るのが大切になるわけで「テレビを見ること」=「勉強」になる、と。当時は『ひょうきん族』で、のちに僕の大師匠になる三宅恵介さん(※2)たちが「ひょうきんディレクターズ」としてテレビに出ていて、あ、こういう人たちがテレビ局にいて、面白い番組をつくっているんだってことを知って、どんどんテンション上がって「ディレクターに俺はなる」って思ったんです。ワンピース的に(笑)。

『ひょうきん族』のディレクター5人によるユニット、「ひょうきんディレクターズ」(左から荻野繁、永峰明、山懸慎司、三宅恵介、佐藤義和) ©フジテレビ