死を小説で扱うのは安直だという若い自分と、書き方次第だと思う今の自分がいる。
――『愛のようだ』は主人公の好きな人が友人の恋人で、なおかつ彼女が病をかかえているという。この時は、山田詠美さんの『明日死ぬかもしれない自分、そしてあなたたち』の文庫解説を書いたことも大きかったとか。
長嶋 そう、山田詠美さんの小説を読んで、僕より二十年近く先輩の詠美さんがね、野心的に攻めている小説を書いている気がしたんですよ。まるでメロドラマのような、家族に訪れた大切な人の死という、手垢がついているような悲しみのことを冒頭に持ってきている、いっけんおとなしい小説で。『ジェントルマン』と『賢者の愛』もあわせて、3連続で快調に飛ばす詠美さんの作品が格好よかったんですよ。その中でも一番地味に見えたその本が、過激に思えた。それまで人が死ぬ小説、それこそ白血病で死ぬみたいなことで盛り上げるなんていう安直な小説は書かないぞと思っていたけれど、でも、白血病で死ぬことは安直なことではない。それどころか普遍的なこと。なんで死ぬのであれ、安直かどうかは個々の小説がどうかというだけなんですよね。でも素直に言えば、多くの人は若いうちは死は縁遠くて、年をとってくると死への考え方が変わるじゃないですか。つまり死を小説で取り扱うのは安直だという若い自分と、安直かどうかは書き方次第だという今の自分がいるんだなと思う。でも安直になりやすいから、やっぱり死を書くのは怖いよね。
――この作品が刊行されたのが、長嶋さんが実際に親交の深かったイラストレーターのフジモトマサルさんが亡くなった頃でしたね。この小説の中の伊勢神宮に行ったエピソードは、フジモトさんたちと一緒にいった時のエピソードが盛り込まれているとか。
長嶋 伊勢旅行はフジモトさんが企画したんですよ。自分の快癒のために。僕はちょうど免許取りたてだったんですが、初心者の僕があまり簡単すぎるところで運転することにならないようにって、トップバッターで都心の道を僕に運転させるという、そこまで塩梅してくれたんだよね。その時、同乗した友達が帰りの高速でスピードを出しすぎて捕まって、すごく落ち込んでて。僕はその頃は初心者だったから捕まって落ち込むという気持ちが分からなかったんだけれど、フジモトさんはその子に後日、菓子折りを贈ってた。それぐらいしていいことらしいのよ、切符を切られるということは。
――『愛のようだ』は長嶋さん自身が免許を取ったこと、山田詠美さんの文庫解説を書いたこと、フジモトさんのこと……いろんなことが重なって生まれたんですね。
長嶋 同時期ではあるからね。でもそんな一連結託してスパークして書いたというわけではないですね。執筆期間も長かったし。いろんなことを思いながら書いたなかに、それらが全部結果的には含まれていることになった。最初は車のことを書こう、しかなかった。それにその頃はフジモトさんが死ぬって思ってなかった。フジモトさんのことをメモリーにしようみたいに思うわけなかったんです、治ると思っていたから。それにこの小説に、フジモトさんのような人格の人が出てくるわけじゃないしね。フジモトさんという人の穏やかさとか、なにかノンフィクションの中の人みたいな、菓子折りを贈るというような折り目正しさは、すぐには小説にとらえられない。書いても嘘みたいになる。でもやっぱり、読んでほしかったな。