東京ではじめた「ゴールデンボンバーに近いこと」
おぐら マキタさんは上京したあと、芸人とバンド、どっちからはじめたんですか?
マキタ 形式としてはバンドを組んだけど、バンドをやってるおもしろい人になったほうがいいって思ってた。
おぐら だいぶ戦略的じゃないですか。バンドでコミカルなこともやる感じ?
マキタ あえて例えるなら、いまでいうゴールデンボンバーに近いことをやろうとしてたんだと思う。固定で3人のコアメンバーがいて、そこにサポート的なメンバーを入れたりするような形態。でも自分以外の2人もあんまり俺がやろうとしてることを理解できなくて、当時は人のせいにしていたけど、いま思えば単純に俺のプレゼンが下手だったんだよね。何をどうしたいのか、うまく伝えられなかった。
おぐら コミックバンドとは言わないまでも、コメディ要素を取り入れたバンドは当時もいましたよね。
マキタ 米米CLUBとかね。でも米米は大所帯だし、俺はもっとコンパクトにやろうと思ってた。俺がギターボーカルで、もうひとりギターがいて、もうひとりはベース。で、それぞれ3人のMCが漫才になっていたり、ちょっと趣向を凝らしたフォーメーション的なボケをやったり。あとは、お客さんの中に仕込みのサクラを入れておいて、ステージに上げてコントをやったり、スケッチブックを使ったネタみたいなこともやってた。
おぐら 初めて聞きました、その話。
マキタ 3人で練習するんだけど、メンバーの2人はお笑いへの関心が低かったんだよね。もともと音楽の素養を見込んでバンドを組んだわけだし。それで俺がダメ出しをしたりすると、だんだんスタジオに来なくなって、活動期間は実質1年もやってない。
おぐら じゃあ自然とピン芸になっていったと。
マキタ その前に、懲りずにまた同志を募ろうと思って『ぴあ』の募集告知に載っていた小さなお笑い劇団に応募したの。そこに潜り込んでメンバーを探そうと思って。
おぐら 当時の『ぴあ』は存在感あったんですね。松尾スズキさんも1987年に『ぴあ』の投稿コーナーで劇団員を募集して「大人計画」を旗揚げしています。
マキタ 90年代まではみんな『ぴあ』読んでたよ。結局、その劇団で気が合いそうなやつとコンビを組んで吉本の劇場とかのオーディションに行ったの。
おぐら それも初耳です。その時期のことって、ほかで話してます?
マキタ あんまり話してないね。
相方はダウンタウンに“悪い感化”のされ方をしてた
おぐら ネタは楽器を持ってやってたんですか?
マキタ 楽器は持ってた。2人で音楽ネタをやっていたんだけど、そのときの相方は劇団の座長だったので、気質がお山の大将だったし、当時のダウンタウンに悪い感化のされ方をしてたんだよ。
おぐら お笑いは偉いんだ、だから媚びねえぞ、みたいな。
マキタ そうそう、妙に偉そうなの。
おぐら 吉本の劇場でオーディションを受けていたときの同期って誰ですか?
マキタ 俺が受けてたのは渋谷公園通り劇場だったから、そこだとガレッジセールとか。1995年か96年くらいかな。
おぐら 『今田耕司のシブヤ系うらりんご』が渋谷公園通り劇場から生放送してた時期ですね。
マキタ 銀座七丁目劇場だとダイノジも同じ時期かな。それで吉本ならとりあえず人が多いし、それだけ可能性もあるから入ってもいいと思ってたんだけど、新人は劇場のチラシ配りとかをさせられるのを、その座長だった相方が「そんなの俺はやらない」って。
おぐら 悪い感化のされ方が(笑)。
マキタ オーディションには何回も受かったのに、結局そいつが来なくなって吉本への道は閉ざされたんだよね。
(#2に続く)
写真=文藝春秋/釜谷洋史