高齢者問題の離れすぎた理想と現実
私も親父お袋義父義母の健康問題に直面していて常々思うんですけど、この世に美しく理想的な高齢者問題というものは存在しません。心穏やかに最期のときを待つ高齢者は、周りに迷惑をかけることなく尊厳を保ち、若者や親族に尊敬されながら最期は子ども家族や孫に囲まれて心安らかに天寿を全うしました、とかものすごく難易度の高い結末だと思うんですよね。
実際に起きていることは理想とはかけ離れていますし、ご家庭やご本人の生きざまによっても随分状況は異なります。言うことを聞かない高齢者に、最初は優しく、だんだん大声で、まるで幼稚園の悪ガキどもをどうにか教導するかのように何とか統制しようとする施設の介護職員の面々。その必死さを見ると、逆に高齢者問題の出口のなさを肌身で感じることになります。
あるいは、ジジイはジジイ同士くだらないことで喧嘩をし、お前はジジイすぎて一人でお家に置いておけなくなったから施設に来ているんだよということを棚に上げて「俺はこんなジジイばっかりの場所にいたくない」と言い出すジジイを宥めすかして施設に送り出すと、健康なジジイの派閥ができてボケきった同室のジジイをいじめてテレビを観せなくするなどの嫌がらせを繰り返したりしておるのです。
いいか。年寄りというのはみんながみんな、枯れて聖人君子になるんじゃないんだよ。むしろ、実態は逆で、大人としての配慮も不要になり、社会常識方面のことを考えなくなった結果、人は歳を重ねて5歳児に、そして幼児へと帰っていく。頑固者が年を取って丸くなるどころか、老け込むほどにどんどん頑迷で怒りっぽい爺さんになっていく。悲しいけどこれが現実なのよね。生きとし生けるものの摂理とはこういうことなのだ、と胸に刻むしか方法は無いのです。
終わることのない、死に向けたマウント合戦
いいから黙って病院に行けよというと、俺はどこも悪くない、健康そのものなのになぜ病院に行くのかと怒り出す。お前の身体は少しガタついてるからリタイアして家にいるんだよ。でも自分は健康である、医者にはかからないと決めている高齢者はテコでも病院に行きません。
それなのに、口をちゃんと閉められないので食べ物をこぼす。口の横からちょっとこぼすのではなく、口の正面から吐き出すように汁ものを出してしまうのを、うまくスプーンでフォローして、少しずつ飲み込ませる。しかし、老人の感想は「なにこれマズい」であり「他にうまいものはないのか」であり「俺が食べたいのは山掛けマグロ丼だ、早く持ってこい」と言い出す。もちろん、マグロなど喰おうものならその夜は下痢便待ったなしなわけですよ。そこでまた押し問答からの口論になるのは定番です。
そして、まだ多少はコミュニケーションの取れる年寄りが集会室でたむろすると、決まって始まるのは病気自慢。俺はガンをやった、転移したけどまだ生きてる、いやいや俺なんて腎臓がひとつない、その程度では生ぬるい、俺は半身不随からリハビリで頑張って喋れるまで回復した。終わることのない、死に向けたマウント合戦。呆然として眺めるわたくし。良いからお前ら穏やかに死ねよと言いたくもなるぐらい、愛らしくもイラつく年寄りどもって素敵じゃないですか。
口が回るだけならうるさいだけだからまだいいんです。程度の悪いのになると、若い介護職員さんに物理的に噛みついて、彼の腕は歯型なのか入れ歯型なのか不明な形のあざだらけに。また、年頃の若い女性の理学療法士さんを見つけてはしみじみと「あんたブスだねえ」という。おいやめろ。黒髪に染めてくれとヒステリックに叫んで要求した後で染め方が足りないとクレームを言うおばあさん。そのおばあさんを巡って複数の爺さんが勃ちもしないのに色恋沙汰の大論争を繰り広げるという。