文春オンライン

政府に指図される「人生100年時代」とかいう罰ゲーム人生

長生きしているからずーっと健康、という前提で話を決めてないかい?

2019/04/18
note

見知らぬ人に囲まれて生きるということ

 まあ、確かに元気ですよ。90歳なのにスクワットを毎日欠かさずやるおばあさんもいれば、そのような喧噪とは無縁とばかりに窓際で静かに本を読んでいるお爺さんもいる。しかしその爺さんの本をよく見てみると逆さまに本を持っていたりして、絶対お前読んでないだろ。

 そして、どの施設でも、どんな環境でもお爺さんやお婆さんの話を聞いていると出てくる言葉は「孫に会いたい」。これ。次に孫が施設に来る時にはこんな話をするんだ、あんなプレゼントをやるんだと話してる婆さん爺さんは、さっきまで程度の低い幼稚園児みたいな失態を繰り返していたのに急に輝くような笑顔になる。

 昔懐かしいテレホンカードを使う公衆電話で家族と話をしている高齢者は部屋で同居のジジイとつかみ合いの喧嘩をしている姿とはまったく異なる、慎みある家庭人の顔になったりもします。その電話線一本でようやく下界と繋がり、楽しそうに家族と近況を喋る。誰がどう見ても、あんたもう今晩死ぬんじゃないかと思うような高齢者が、職員さんから「ご家族から電話です」と聞くと突然シャキーンとして枯れ枝のような指で受話器を取る姿を見ると、ああこれが人間なんだなと強く思うのです。

ADVERTISEMENT

©iStock.com

 そんな爺さんが、電話口でご家族に「俺、早くここを出て山掛けマグロ丼喰いに行きたいよ」とこぼす。そんなに好きかマグロ丼。でもまあ、こんなところに良い歳してやってきて、学校でも辛いクラスメート固定のような状態で余生を過ごすというのはいくら何でも悲しい。でももう一人では暮らせないと判断され、面倒を見てくれる息子や娘夫婦はなく、家族の情もないまま見知らぬ職員さんやお年寄りたちに囲まれて生きるというのはなかなかに大変なのです。

人が人として駄目になっていく

 職員さんの数が足りず、なかなか手が回らない施設にお邪魔していたときは、職員さんも過酷だったけどそれ以上に入ってる爺さん婆さんが可哀想で、決まった時間にしかオムツは換えてもらえないし、集会室どころかトイレへ自室から行くことすらままならない高齢者ばっかりだったもんだから、もう日に日に人が人として駄目になっていくんです。あれは見ていたら心情はよく分かる。人間として、こういう環境で尊厳を保つためにはボケるしかないんだ。気丈だった人はよりヒステリーに、穏やかだった人は顔から表情が消える。それでも最期を迎えるまでは、生を全うしなければならないのです。

 そして、少し若めの人たちが来る施設では、また様相は違っていました。若いから程度は良いのかなと思ったら、独身でバリバリ働いていた人たちが何かの理由で倒れて後遺症で働けなくなり、生活保護を貰いながら緩慢な社会的死の時間を過ごしている。大多数は独身のまま老人に差し掛かって病気をし、本当の意味で人生が詰んでしまう事例です。

©iStock.com

 山本家は週何日も世話を焼きに介護の手伝いに行くのですが、ご一緒する人たちの少なくない割合の方々はおそらくは誰からも愛されることもなく、上手く喋れない病気を抱えて唸るような声を出すだけで想いを伝えることもできない。無念だろうと思うんですよね。誰からも見舞われないから、ベッドサイドのテーブルにただ紙コップが一個ぽつんと置かれていたりする。中には、独身のまま若年性認知症になってしまい、突然無職で無縁になってしまう人もいます。

 久しぶりに訪問者があったなと思ってよく見たら某政党の構成員さんだったりして世も末です。本来なら「帰れ」と言いたいところだけど、職員さんを除けばそういう人たちとしか話すこともない人々にとって、たとえそれが票田であり何らかのビジネスなのだとしても寄り添わざるを得ないんじゃないかと思ったりもします。