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連載昭和の35大事件

スターリン信頼の幹部による謎の亡命事件――リュシコフ大将は本当にソ連を裏切ったのか

「反ソ反共にもなるんですか?」で一変した表情

source : 文藝春秋 増刊号 昭和の35大事件

genre : ニュース, 社会, メディア, 国際

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ついに亡命を決行 妻との合図は『私の接吻を送る』

 さてリュシコフが身辺の危険を感じだしたのは、1938年の2、3月頃からであった。それはかれの最も親しい同僚の、レニングラード内務部長官ザコフスキーが逮捕されたという情報がはいり、つづいてウクライナ内務部長官レプレフスキー、白ロシヤ長官のベルマンも、相前後してぞくぞく粛清されるにいたって、スターリンの筋書がはじめてハッキリとかれに納得され、にわかに身辺の危険迫るを感知するにいたった。

 かれが国外脱出を決意するに及んで一ばん悩みのタネとなったのは、27歳の愛妻と11歳の愛嬢の身の始末であった。妻子づれの脱出が極東では全く不可能であることに考え致ったかれは、妻子だけを一先ずモスクワに帰した。そして妻子をまず西部国境からヨーロッパ方面に脱出させることとし、モスクワ出発を合図に妻から『私の接吻を送る』の電報を打たせることとした。1938年6月13日のリュシコフの脱出は、この妻からの電報をうけた瞬間に決行されたのであった。

妻との電報での合図など周到に計画していた 1938年7月2日東京朝日新聞

 愛する妻子の運命がその後どうなったか。西部国境の脱出行はうまく成功したかどうかは、かれの日本に滞在した全期間を通じて最大の悩みと関心のタネであった。妻子の身の上を想う時のリュシコフは正に憂欝そのものであったという。

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 だがかれ自身の脱出も決して楽に行われたわけではない。かれの国境視察にあたっては必ず4、5名の部下が同行して来た。1度国境視察に名を借りて、脱出の場所、方法等を下検分し、2度目に満洲国暉春東側の長岑子の国境の灌木地帯にそれを選んで決行したのであった。

国境を越え、すぐに東京へ

 国境を越えたリュシコフは、暉春国境警察隊員に捕えられ同隊本部に連行されたが、1時間のちには暉春特務機関に調査のため引渡された。というのは特務機関長田中鉄次郎少佐は、滞洲国保安局参与という資格で、調査につき暉春国境警察隊を指導することになっていたからである。電報は直ちに東京、京城、新京に飛んだ。

 この電報を見て参謀本部ロシヤ班長の甲谷悦雄少佐は、直ちにマラトフという偽名を用いることと、特別機で東京に移すこととを手配した。満洲においたら暗殺されるという考えだった。翌日、特別機は京城にもよらず東京に飛び、夕刻にはリュシコフは、物々しく憲兵に警護された九段上の偕行社新館(現ミドリー・ホテル)の一室で、かけつけてきた甲谷少佐と話していた。

 彼は甲谷少佐を彼のモスクワ在勤時代から知っているといって、さも安堵した様子だった。自分はトロッキスト扱いにされて殺される所だった。日本の陸軍暗号は盗まれていない。(甲谷少佐は安心した)遂に物にならなかったのはポーランドの外交暗号であったという。甲谷少佐は最少限反スターリンという線で利用できると考えた。

1938年7月2日の東京朝日新聞夕刊

 リュシコフは暉春国境警察隊に押収されている現金日本円3200円と前記レーピン空軍兵団長の血の請願状並びにパスポートの取戻し方を依願した。数時間後、それについての電報は新京に飛んだ。山王ホテルで盛大な記者会見が行われたのはそれから数日後だったが、その時から彼は姿を消してしまった。甲谷少佐がかくしたのだ。