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連載昭和の35大事件

スターリン信頼の幹部による謎の亡命事件――リュシコフ大将は本当にソ連を裏切ったのか

「反ソ反共にもなるんですか?」で一変した表情

source : 文藝春秋 増刊号 昭和の35大事件

genre : ニュース, 社会, メディア, 国際

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リュシコフ事件が引き起こしたある出来事

 このようなやり方に、関東軍参謀副長石原莞爾少将は激怒した。それは参謀本部が満洲国側が最初に捕えたリュシコフを、一言の断りもなく拉致してしまったからであった。

 それを彼は、最近中央にみなぎっている権力主義の現れであり、もしこれを放っておいたら、道義の頽廃、満洲国人心の離反は必至であると痛論した。満洲国側と、保安局の指導を担当している関東軍第二課も同感であった。石原少将は激越な言葉を連ねた電文をかき、中央当局に猛省を要求した。

 その勢の猛烈さに関東軍幕僚はそれほどまでにはと思ったが、ただハラハラするばかりで止めることも出来なかった。電文には国境警察隊の押収物を取り上げるなど、以てのほかだとも書いてあった。

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 参謀本部ロシヤ課長の川俣雄人中佐は、返信案を参謀次長多田駿中将に提出した。多田中将は、それでは関東軍を怒らすばかりだといって相当に修正させた。

 押収物の件はこんなことで片づいたが、石原少将はおさまらなかった。少将は間もなく上京して、陸相板垣中将に強硬進言を行って満洲に帰らず、遂に内地職に補せられて、東亜連盟運動を起すにいたったが、その発端はリュシコフ事件であったのである。

2500枚にも及んだ膨大な"秘録"

リュシコフの最初の仕事は軍事情報の提供であった。

 甲谷少佐は彼の張り切った体をみて、向島遊廓に案内した。一晩中歓をつくしたということだが、不幸淋病をもらってしまった。これには智恵者の甲谷少佐も閉口した。他の医者に見せるわけにも行かず、ロシヤ語のできる村上軍医に治療を依頼するという騒ぎになった。

 だがこんな事は永続きせぬ。甲谷少佐は牛込見附に家をかり、リュシコフをここに移した。護衛憲兵を同居させ、樋口みよさんという浦潮に居たことのある中年婦人を家政婦にした。この狙いは適中して、後に二人は結婚して、名前も日本式に加藤と改め、日本の国籍をえて帰化している。こんな所からリュシコフは、初めは単なる反スターリンだったが、後には反ソ反共になったという説も出て来ている。

 リェシコフはこの家で、ソ連のラジオを聞き、定期刊行物をよみ、ソ連批判の筆をとり始めた。参謀本部の主任者は矢部忠太中佐であり、モスクワのクートベ(東洋人共産学校)の卒業者高谷覚蔵君が毎日連絡にあたっていた。

 彼の書いたものは、参謀本部でステンシルに刷られ、支那事変の最中でソ連を刺戟せぬという方針から、極秘扱いでごく限られた範囲にだけ配布された。それは血なまぐさい粛清物語りや奇々怪々な党内の陰謀と腐敗からはじまって、ソ連の五カ年計画批判、『ソ連共産党小史』の批判に及んでいたが、他の何人もかきえない秘録であったことは言うまでもない。総ページ数は遂に2400~2500枚にも及んだ膨大なものであった。

当時の内閣情報部「写真集報」

 筆者はその頃関東軍司令部第二課に居て、こんなに厚くて読めるかと文句をいいながら、その凄さ、奇怪さに引きこまれて読んで行ったものであった。だが段々読み進むうち、何かしら不安がひろがって行ったが、やがて『ソ連共産党小史』の批判をよむに到り、どうしても彼に会わねばと考えるに到った。