解説:60年以上たっても謎の「亡命」

「35大事件」の中には、60年以上経っても全貌や真相がはっきりしないものがある。旧ソ連の秘密警察幹部だったゲンリフ・リュシコフ三等大将が、機密書類を携えて満洲に亡命してきた「リュシコフ亡命事件」もその1つ。

 その後のリュシコフについては、日本軍の大連特務機関長だった元大尉が「私がリュシコフを撃った」という手記を1979年の「文藝春秋」に載せており、終戦直後に射殺されたことに疑いはないが、そのほかの多くは歴史の闇の中だ。

「私がリュシコフを撃った」手記

 亡命が日本人にも大きな衝撃を与えたことは、小説『銀の匙』で知られる中勘助が「リュシコフ」という詩を書いたことでも分かる。日本の軍部にとって、ソ連との情報戦における最重要人物だった。しかし、彼からどんな情報を引き出し、それをどう生かしたかなどはまったく不明。日ソ両軍が衝突した張鼓峰事件は、リュシコフの亡命に応じたソ連軍の行動が発端だったとされるが、翌年のノモンハン事件で日本軍はソ連軍に惨敗した。リュシコフの情報は生かされなかったのだろうか。日本にはインテリジェンス(情報)を活用するインテリジェンス(知性)がなかったのか。

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リュシコフの手記を載せた新聞号外

 当時の日本共産党幹部で、戦後「政界のフィクサー」と呼ばれた田中清玄は自伝で、本文に登場する高谷覚蔵に触れている。高谷は招かれて10年以上ソ連に滞在中、リュシコフの“片腕”だった。共産党再建のため先に日本に帰ったが、「日本に来ることをリュシコフと打ち合わせていたのかもしれません」と田中は書く。本文からも、亡命はスターリンの粛清から逃れるためで、共産主義は捨てなかったことが読み取れる。そんな“裏”を持つリュシコフがどれだけ日本に情報を漏らしただろうか。逆に、リュシコフ亡命の情報は東京の ドイツ大使館を通じて、ソ連のスパイだったリヒャルト・ゾルゲからソ連側に漏れていた。

 大越氏は、満洲(現中国東北部)に駐留していた「関東軍」の石原莞爾・参謀副長が激怒して上京、そのまま転属になったと書いた。だが、石原は以前から上司の東条英機・参謀長と犬猿の仲。リュシコフは満洲を離れる口実に使っただけだ。

小池新(ジャーナリスト)

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 昭和13年6月、石原莞爾を激怒させ、世界の新聞界を騒がせた、ソ連要人の日本亡命の真相を当時の関東軍参謀の筆者・大越兼二氏が発表!!

 初出:文藝春秋臨時増刊『昭和の35大事件』(1955年刊)、原題「リュシコフ三等大将の脱出」

世界の新聞界を騒がせた、突然の「亡命」

 1938年6月13日、ソヴエト政府内務部極東長官で、最高会議代議員を兼ねるリュシコフ大将が、社会主義の祖国に後砂をかけて、突如満洲国へ兎のように越境亡命してきた事件は、それが青天の霹靂のように降ってわいた異例の出来事であっただけに、世界的に大きなセンセーションをまきおこした。日本の新聞記者はいうに及ばず、欧米各国の極東詰の新聞特派員は、リュシコフ会見記を近来のビッグ・ニュースとして長文打電したこというまでもない。

リュシコフ大将の記者会見を報じている 1938年7月14日東京朝日新聞