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連載昭和の35大事件

source : 文藝春秋 増刊号 昭和の35大事件

genre : ニュース, 社会, メディア, 国際

終戦後のリュシコフ

 昭和19年10月筆者は南方から関東軍第二課長に着任した、敗戦の色はますます濃く、ソ連の参戦は明年8月と判断された。リュシコフに次いで外蒙から逃げて来た第三十六師団参謀長フロント少佐を何とか始末する必要があった。マライかマニラかへ逃亡させ、ソ連軍に捕えられぬようにしてやることがせめてもの「武士の情」だと考えられた。

 だが身辺を内偵すると、フロントは白系の妻とごく平穏に暮していた。あれほど優れた頭脳の彼が、日本の敗戦を予見出来ぬことが有りえようか。ドイツは崩壊に瀕している。筆者は彼をよんで今後の欧洲戦局の見通しをたずねた。

「赤軍は勿論ファシストを撃滅しましょう」

 彼はこみ上げて来るうれしさに、一瞬白い歯をむき出しにして相好をくずした。それは私の初めて見る顔だった。

「米英との関係が悪くなるのは?」

「ファシスト撃滅のずっと後です。彼らの方から敬意を示すまで、休息が必要です」

「彼ら」というとき、彼の目はギラリと光った。それはかつて日本軍参謀との対抗演習で、彼が赤軍司令官として、日本軍撃滅の命令を下したときの険しい目付であった。

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「戦後にもソ連には粛清があるでしょうか」

「勿論あります、大佐殿」自信にみちた声であった。何か私にすることがありますか、という私の問いに、彼は、「いいえ何にも」と返事した。私は血は水より濃いと考えマニラやマレイの話をせずに彼と別れた。

 3月筆者は東京への転任を命ぜられた。後任の某大佐(特に名を秘す)は、情勢判断を聞くためにリュシコフをつれて来たいが、彼も来ることを欲していると筆者に話した。彼は矢部少将に代って、リュシコフの世話をしていたのだ。私は新京はうるさいから、大連がよいだろうとすすめ、その通り実行された。

 終戦後まず判ったのはフロントが新京でソ連軍に捕えられ北送されたということであったが、またスウェーデンに逃れているという情報もある。又リュシコフはソ連軍に逮捕され、大連駅に入ったのを目撃した友人がいるということを、ある満鉄調査部職員から聞いたが、特務機関が金を出して天津に逃がしたのだという説もある。

 彼らが何うであったかは、その消息が明らかになって、初めて断じうるのであろう。

 (元大本営参謀大佐・現産経論説室嘱託)

※記事の内容がわかりやすいように、一部のものについては改題しています。

※表記については原則として原文のままとしましたが、読みやすさを考え、旧字・旧かなは改めました。
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