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 三瓶覚書の内容

 (一)シベリア出兵当時第十四師団附陸軍露語通訳官松井の言によれば、第十四師団が分捕した砂金は大部分露軍兵営内にあったもので、自分は其輸送に当ったが、第一回は八百万ルーブル第二回は二百万ルーブルであった。現地でこの砂金を通貨と交換するのは非常に困難で、支那人の富豪に頼んでも一日五十万ルーブル以上は不可能であった。金塊はこの砂金を熔かしたものだが、大部分は砂金のまゝ麻袋に入れ、袋の口を鉛で封じて長サ二尺幅一尺高サ八寸の木箱に五万ルーブル宛詰めて送った。

 (二)第十四師団は帰還の際、金塊の一部を梱包にして持帰り、宇都宮駅前菊地運送店倉庫に保管し兵隊に監視させていたが、金塊があると云う評判が高くなったので倉庫に放火、混雑中に他に運び出そうと計ったが成功せず、宇都宮怪火の一つになっている。その金塊は東京方面に移送されたと言われているが不明である。

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 (三)大正十四年五月頃、某陸軍予備将官が三菱合資会社の重役を訪れ、三百万円相当の砂金を買取って呉れぬかと交渉した事実がある。その将官は陸軍の特別倉庫には、それ以上の砂金と金塊が貯蔵してあるとほのめかした。

 (四)シベリヤ出兵軍憲兵司令官吉弘少将の言によれば日本軍が押収した金塊の一部約百万円の金塊は、最初朝鮮銀行に保管させていたが、内地に移送する為整理委員とし山田軍太郎少将、五味為吉少将、直家主計監督が挙げられたが、当時陸軍大臣山梨半造は官用に托して門司に出張し来り自ら指揮して何処かに移送して如何に処分されたか不明である。

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一身を賭した告発 緻密に進められた捜査の裏側

 如上の告発状を検事局に提出するとそのまま三瓶は行衛を晦した。三瓶の家では母親が病床に臥している上に妻は男子を生んだばかりで未だ産褥についていて、謂わば家に2人の病人がいると同じだった。家のことも気がかりだが軍首脳部と一党の総裁を告発したからには一身の危険から当分身をかくす外はなかった。三瓶は変装して中央線の大月駅で下り駅前の富士見旅館に変名して潜んでいた。検事局との連絡係は元大隈侯の秘書で雑誌「大観」の編集長相馬由也氏が当り、一身の保護には元参謀本部員小山秋作大佐(有名な日本海々戦の画家小山正太郎氏実弟)が引受けた。三瓶の身辺には政友会の院外団がつけ狙っていて一刻の油断も出来ない情況にあった。

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 この事件は政友、憲政両党の政争と陸軍部内の長州閥、反長州閥の派閥闘争とが絡み合って表面化した産物でもある。検事局としても非常にやりにくい性質のものである。従って一身を賭してことに当る覚悟が必要でもあった。石田次席検事はこれを余人に任せず自ら陣頭に立って事件と取組んだのには、深く心に決するところがあったに違いない。と云うのは東京地方検事局では次席検事自身が率先して取調べの衝に当ることは前例がなかったからだ。

 三瓶は3月16日相馬氏に伴われて上京、中野駅からコッソリ検事局に出頭した。18日午後7時20分まで3日間構内に缶詰にして石田次席検事自身、告発するまでの事情と告発状の内容、それに三瓶覚書にある金塊問題など取調べは緻密に進められたようである。