1ページ目から読む
5/5ページ目

田中大将の死

 田中内閣の末路ほど見苦しいものはなかった。張作霖が爆死したのは日本軍の仕業であることが明るみに出て、田中首相は責任者の処罰を元老西園寺公に約束し、陛下にも奏上した。然し処罰問題も関東軍の強硬な反対で実現出来ず進退両難に苦しんだ。陛下からは田中の顔は見たくないとまで言われて、遂に詰腹を切らせられた。昭和4年7月である。更に内閣明渡しの後には疑獄で追打をかけられた。五私鉄疑獄では小川平吉氏が収監され勲章疑獄には天岡直嘉氏が続いて収監された。叙勲の御沙汰には総理大臣にも奏上の責任がある。弱り目に祟り目、人間落ち目になるとトコトンまで追詰められるものである。陛下の御信任を失ったら政治的生命を絶たれたも同然だしこの上疑獄で疑いをかけられることは人として堪えられないに違いない。

張作霖爆破事件を伝える1928年6月4日東京朝日新聞夕刊

 昭和4年9月29日の朝、東京地方検事局の宿直室に麹町警察署から田中大将が変死したのに対し検事の立会を求めて来た。従来検死に立会を求めることはなかったのであるが、総理大臣の前歴者と云うので慎重を期して連絡して来たものらしい。その電話を受けたのが奇しくも機密費事件を担当した大河原検事であった。直ちに塩野検事正に報告して指揮を仰いだところ『検事は立会う必要はない、警視庁に任して置くがよかろう』と云う命令であった。

 ところが家族は大将が狭心症で死去したと発表した。この病名から今だに将軍腹上の死と云う芳しからぬ風評が流布されている。狭心症の発作が妙な時妙な場所で多く起るので、田中大将もそれだったのかと同病の経験者が連想して言い出したものであらう。

ADVERTISEMENT

田中義一大将の死亡を伝える記事

 所が事実は軍人らしく立派に自刃しているのである。筆者の知己であるI氏は特に田中大将と親しい間柄であった。大将が死んだと云う報せを受けた時には床屋にいて髯を片側剃り終ったところであった。驚いて半ペラの髯を残したままの顔で駈けつけて、遺骸をきれいにしたと云うことをI氏夫人から聞いたことがある。またその後に駈けつけた人は身体から首へかけて繃帯してあったが、狭心症と云うのはそう云うものかと首を捻っていた。これもほんとの話である。

 I氏も既に死去され、自殺を確認する資料とてない。大将の子息田中竜夫氏もこれをはっきり否定されているのだが、私はI氏の洩らしたこの事実を信じ、田中大将にまつわる不名誉な風評を雪ぎたいと思うものである。大将は天皇陛下の御不興に死をもってお詫びしたのではないだろうか。

※記事の内容がわかりやすいように、一部のものについては改題しています。

※表記については原則として原文のままとしましたが、読みやすさを考え、旧字・旧かなは改めました。
※掲載された著作について再掲載許諾の確認をすべく精力を傾けましたが、どうしても著作権継承者やその転居先がわからないものがありました。お気づきの方は、編集部までお申し出ください。