昭和34年(1959年)創刊の総合週刊誌「週刊文春」の紹介サイトです。最新号やバックナンバーから、いくつか記事を掲載していきます。各号の目次や定期購読のご案内も掲載しています。

2019/07/21

 高校を卒業した久保さんは、1995年、サンフレッチェ広島に入団する。

ーー監督やコーチとは折り合いはついたんですか。

久保 やっぱ、合う合わんはあるし、好き嫌いはあるけ。若いときはキーパーコーチと練習してましたね。シュートを決めたかったから。どういうフォームがキーパーから見てわかりにくいのかとか、いつも居残ってシュート練習してました。サンフレッチェの加藤(寿一)さんにああじゃこうじゃいいながら。キーパーの盲点みたいなのを知りたかったんです。一緒に入ってクビになる選手とかいっぱいいるし、どうしても生き残りたかったし、試合に出たかったから、練習はしてました。

「トルシエ監督は大嫌いだったし、チームにも馴染めなかった」

 入団2年目には早くもリーグ戦22試合に出場、独特の嗅覚で得点を入れ初め、98年には32試合で12得点をあげ、レギュラーに定着。同時にフィリップ・トルシエ監督によって日本代表に招集され、代表デビューを果たした。

 

ーートルシエに日本代表に呼ばれたときは、あまり積極的ではなかったんですよね。トルシエが嫌いだった?

久保 監督は大嫌いだったし、チームにも馴染めず、合宿でもひとりでメシ食ってました。丸テーブルで食事するんだけど、早い時間に行くか、遅い時間にずらして一番遅く行くか、1年ぐらいそんなことをやっていた。みんな小さい頃から一緒にやっているアンダー世代や井原(正巳)さんやゴン(中山雅史)さんみたいなすごい先輩たちで、エリートで、自分だけ田舎もんというか、バカにされているよう感じがあったんです。

 トルシエは、その態度とか、接し方がもう無理で……。指導の仕方も、雰囲気も、一緒におりたくない感じでした。顔を合わせれば、なんかふっかけてきて、細かいこと言ってきて、バカにされている感じがした。実際、通訳のダバディは、もっとひどいことを言っているから、訳せんけどって言っていたし(笑)。

 

後々気づいたトルシエの考え

 ただ、あの人も、わざとやってたというのもね、後々には気づくんです。力を引き出そうとして。やっぱ、自分がプロとしてしょぼかったけえ、まあ、W杯も出られないし、本当に子どもだったというか。自分がアホやったみたいな……。

 トルシエからは、サッカーやめた後に、何回か電話をもらいました。高校の後輩がフランスのニースで料理人やっていて、そこにトルシエもよく来ていて、「元気か」みたいな感じでかけてきてくれて。

z