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「うちは逃げるよ」あのとき、避難はSNSで始まっていた――西日本豪雨から1年。知られざる教訓

2019/07/06
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避難勧告前から逃げる人が続出、渋滞が発生していた

 ところで6日夜、市が真備町に避難情報を出したのは遅かった。

 午後7時半、河川氾濫ではなく、「土砂災害の恐れが高まっている」として山沿いに避難勧告を出した。

「小田川の水位が急激に上昇している」と、真備町全体に避難勧告を出したのは午後10時だ。

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「その頃にはもう、凄い数の避難者で、渋滞まで発生していました」

 岡田地区まちづくり推進協議会の会長、黒瀬正典さん(65)は話す。自分で判断して逃げてきた人々だった。

体育館に入りきれないほどの避難者

 岡田は川辺から少し山側に入ったところにある。昨年の災害では、川辺と同じように2階まで浸水した地区と、無傷で済んだ地区に分かれた。

 歴史をさかのぼれば江戸時代、岡田や川辺の一帯を治めていたのは1万石強の小藩・岡田藩だ。

 川辺は山陽道の宿場町だった。高梁川の渡しもあったので、藩主の居館はここに置いた。だが、高梁川や小田川の氾濫に悩まされ、川辺宿をぐるりと取り囲む高さ3.6メートルの土手を造った。神楽(かぐら)土手と呼ばれる輪中(わじゅう)だ。同藩の飛び地がある岐阜県の美濃地方から学んだとされている。

川辺宿の中心にあった「川辺本陣」跡の碑(倉敷市真備町川辺)

 さらに岡田藩は、川辺宿から1.5キロメートルほど離れた岡田地区の高台に藩主の居館を移した。現在の市立岡田小学校である。

 同小学校の体育館は現在、市の指定避難所になっている。水害の際は岡田地区だけでなく、川辺地区の住民も避難する形になっている。

 この避難所の地元責任者だったのが黒瀬さんである。

「6日午後8時半すぎに帰宅すると、避難者が増えてきたからすぐに来てくれと連絡があって駆けつけました。午後10時頃から物凄く混雑し、1時間もすると入れなくなりました。私は学校前の道路に出て、『もう少し奥の地区の小学校まで避難してほしい』と車の交通整理をしました」と話す。

神楽土手の一部が今も残る(倉敷市真備町川辺)

SNSによる「逃げる」の連鎖

「この頃、友達から『逃げる』という連絡がラインでたくさん入ってきて、私も逃げなければと焦った」と振り返る女性もいる。SNSによる「逃げる」の連鎖が、若手や子育て世代を突き動かしていたのである。

 小田川の小さな支流で決壊が始まったのは、その後のことだ。

 川辺・岡田地区への市の避難指示はさらに後で、日付が変わった7日午前1時半だった。国交省の調査委員会の推定では、午前3時20分頃に小田川の堤防が切れたとされる。この日の昼までに、真備町は市街などが池のようになり、最大5メートルも浸水した。