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「亡くなった人の多くは高齢者でした」

 ただし、岡田小学校は浸からなかった。

 当時を振り返って、「高齢者ほど危機感が乏しかった」と話す人は多い。「その証拠に亡くなった人の多くは高齢者でした」と、民生委員の浅野静子さん(69)は悔しさに唇をかむ。「私も44歳の嫁に逃げようと言われて逃げました。それでも家にとどまった夫は、遠方で勤務している息子に電話で説得してもらい、何とか避難させました」。浅野さん宅の周囲は避難後、根こそぎ家が流されるほどの被害に遭う。

浅野さんの避難後、この小さな支流の両岸で大惨事が起きた(倉敷市真備町、末政川)

 それにしてもなぜ、年代によって危機意識の差があったのか。

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 1893(明治26)年、高梁川が決壊し、真備町は昨年と同じように丸呑みにされた。黒瀬さんは「明治の水害でここまで浸水したという痕跡が見つかっています。昨年より14センチ深く浸水していました」と語る。

 ならば、高齢者ほどその言い伝えを聞いていたはずではないか。

「ところが、その後の水害はそこまでの被害がなく、『この程度で済む』という思い込みが高齢者ほど出来ていったのではないか」と指摘する人もいる。

逃げるためのツールとしてSNSを使う

 一方、子育て世代。小田さんは「水害によく遭う土地だとは聞いていましたが、僕らはどこまで水が来るか知らないので、逆に恐怖心がありました。特によそから移り住んだ人間には危機意識があります。子供の安全も確保しないといけないと気を張っていました」と話す。

川辺地区から岡田地区には江戸時代に付けられた「新道」がある。ここを多くの人が避難した

 真備町は戦後の高度経済成長期から、倉敷市のベッドタウンとして人口が増えた。旧住民より新住民の危機感の方が強かったのだろうか。そうした意識が、SNSで拡散され、共有され、多くの人の避難に結びついたのかもしれない。

「友達が気になっても、真夜中にわざわざ電話できません。そうした時にも情報交換できるので、災害時の判断を助ける手段としてSNSは非常に役立ちました。1人孤立して悩んだり、大丈夫だと思い込んだりするのではなく、仲間の情報や行動を参考にして、自分や家族の命を守ってほしい」と小田さんは力を込める。

 東日本大震災以降、SNSは被災後の情報収集に役立つとされてきた。しかし、逃げるためのツールとしても極めて有効であることを、私達は知っておくべきではないだろうか。

写真=葉上太郎