思わぬ先輩からの言葉で受け入れられた「代表落ち」
結局、内田は5月中旬の時点で負傷も抱えて試合ができない状態だったため、W杯に行けないという事態を受け入れるのは、じつは難しくなかった。
「クラブハウスの中でさ、メンバーに入る入らないってあたふたやってるじゃん。そしたらソガさん(曽ヶ端準)が『お前らみたいな怪我人が入れるわけないじゃん。そんな怪我人が入れるんなら俺選べよって思うもん』って。そりゃそうだよなって。やっぱ先輩さすがっすわ、と思ったよ」
監督も強化部長も代表への後押しをなんとかできないか考えてくれた。だが、02年日韓W杯、04年アテネ・オリンピックメンバーで、未だ現役を続ける大先輩の歯に衣着せぬ言葉は、我に返らせてくれるものだった。
「もう、諦めたらラクだもん。」あえて公言してきたW杯への思い
内田は、14年ブラジルW杯直後には「代表引退を考える」と言いながら、結局は18年ロシアW杯を目指した。それも、メディア上などで事あるごとにその目標を公言し、自分を奮い立たせてきた。若かった頃であれば絶対にしない行動だったはずだ。
「オレね、18年にスタメンで90分できたJリーグの試合、(V・ファーレン)長崎戦だけなんだって。それなのによくW杯目指すって言っていたなと思うんだよね。(若い頃だったら)言ってないだろうね。でも、言ってないと、口に出して周りからのプレッシャーもないと、と思ってたの。普通の人だったら内田はW杯に間に合わないだろうなって思うじゃん」
周囲からのプレッシャーをあえて受けることで、それを自分の力に変えようとしたのだ。声援を力に変えるのではない。マイナスの声さえ意図的に巻き起こし、パワーにしようとした。とにかく必死だった。
「もう、諦めたらラクだもん。怪我で間に合わないのでW杯諦めますって言っちゃえば、逆にあそこまで頻繁に細かい怪我をせずに済んだかもしれないよね。試合の出場ペースも詰め込まずに、ゆっくり試合に復帰していったら、結果的にもう少したくさんの試合に出てシーズンを終えられたかもしれない。でも、そうじゃないんだよね」
苦しい道を選択し、敗れた。敗れはしたが、清々しかった。