「組合長の切腹事件」世論を巻き込む大争議へ発展
そのキッカケとなったのは“込米”の廃止ということである。“込米”とは何かというと、幕府時代に農夫が殿様に年貢米を上納する場合、計って見てほんの少しでも足りないと、悪代宮などのためにひどい目にあうので、これを恐れて農民の方は規定の数量よりも1割くらいは多く納めることになっていた。封建的空気の多分に残っていた新潟では、地主がこの慣例をうけついで、余分にとっているが、これをやめてほしいと小作人の方で要求したのである。
この要求は、その前からつづけられていたが、新潟県地主会長の真島桂次郎は、この要求を出した小作人の土地約60町歩に対し、耕作禁止の仮処分を申請した。すると裁判所は、1回の口頭弁論も開かずにこれを許可したので、木崎村小作人組合長は切腹するという惨事まで起った。世論が沸騰したことはいうまでもない。
さすがに裁判所の方でも困って、仮処分の取下げを斡旋し、土地は小作人の手にもどったが、耕地引上げの訴訟の方はつづけられた。第一審は小作人側の負けとなり、第二審に移ったときに、またも耕地引上げに伴う立入禁止の仮執行を申請した。小作人の方ではこの仮執行の停止を申請し、これが聴許されたという電報がとどいたにもかかわらず、地主側は数百人の警官隊援護のもとに、強引にも仮執行を完了した。田植を目前にひかえて小作人は耕地に入ることができなくなったのである。これを冒して入った小作人30余名は、公務妨害騒擾の罪に問われて検挙され、68戸450人のものが生活の基礎を失うことになった。
「争議で学校にいけない」日本最初の無産小学校建設計画が始動
そこで、日本農民組合指導のもとに争議に入り、ただちに演説会や家族大会を開く一方、行商隊の編成、小作人女房の地主連日訪問などが行われ、争議はますます深刻な様相を呈してきた。
木崎村の学童約1000名のうち700名までが、争議が始まると共に登校しなくなったので、同村の小学校はほとんど授業停止の状態になった。ここにおいて組合側は、小作人子弟だけの小学校をつくることを計画し、つぎのような声明文を発して各方面に訴えたのである。
「(争議の原因とその過程を説明した上で)乍然国民教育の一日もゆるがせにすべからざると、今日の資本主義教育の如何に児童を毒するかを知る吾等は、近く優秀なる教員を招致し、最も理想的なる我国最初の無産小学校建設の計画に御座候間、何卒物質的にも精神的にも十分なる援助を賜はり度く懇願仕り候」
このころはこういった声明文も候文で書かれていたのである。そしてこの学校の先生には、安部磯雄、大山郁夫、杉山元治郎など、社会主義運動の長老たちが就任することを承諾し、校長には賀川豊彦氏が選ばれた。
ところで、学校には校舎が必要である、というよりも、校舎をつくる金が必要だ。その金をつくることで、この争議を指導していた三宅正一(現右社代議士)、稲村隆一(現左社代議士)の両君から私は相談をうけた。当時私は新潮社発行の「社会問題講座」の編集をしていたので、同社顧問の加藤武雄君、相談役の木村毅君らにこの話をもちこんだ。いずれも前から「日本フェビァン協会」のメンバーで、社会主義運動には相当の理解と熱意をもっていたし、特に加藤君は農民文学運動の首唱者として、できるだけの援助をしようということになった。