来日35年。外国人タレントとして活躍し続けてきたデーブさんが語る日本のテレビ界。(全3回の3回目/#1、#2へ)
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そもそも1983年にどんな仕事で日本に来た?
―― 1983年にプロデューサーとして再来日しますが、具体的にはどんな仕事だったんですか?
デーブ アメリカABCテレビのロケですね。担当してた番組は、日本でいうと『奇跡体験!アンビリバボー』とか『世界まる見え!テレビ特捜部』みたいなドキュメント形式でした。プロデューサーや司会者も含めてみんなで来て、2週間のロケをするの。アメリカはテレビの黄金時代だったから、予算がすごいあるんです。もちろん、ロケが終わったら帰るつもりだったんだけど、「お前だけ残れ」って言われた。それで、日本のテレビ局にある使える映像を探して、アメリカに送ったりする仕事をしてました。
―― 日本語もできて芸能にも詳しいデーブさんには、適任の仕事ですね。
デーブ 毎日のようにNHKや各局のライブラリーに入り込んで、ひたすら見続けました。もう信じられないくらい良いものがあったんです。日本テレビの『木曜スペシャル』とか、フジテレビのバラエティとか。そのころはホテルに泊まってたんだけど、ビデオデッキを設置して、新しい番組も録画しまくった。それをアメリカにじゃんじゃん送ってたら、「そのまま帰ってくるな」って言われてね。
―― あくまでもアメリカのテレビ局の仕事として、日本に滞在してたんですね。
デーブ そう。日本に住むつもりはなかったし、アメリカで仕事がないから来たわけでもない。ロサンゼルスのマンションもずっと残してましたよ。飼ってたネコもそのままだから、ネコ・ネグレクトだ(笑)。餌は人に頼んでたけどね。
そして『いいとも』でテレビデビュー
―― そして、いよいよ日本のテレビ番組にデビューします。最初は、『笑っていいとも!』の1コーナー「なるほど・だ・ニッポン」。『なるほど!ザ・ワールド』のパロディですね。
デーブ 楽しい出張の記念になると思って出ただけです。のど自慢に出るみたいな気分。帰ってからアメリカの友達に録画したものを見せようと思ってた。だから、その先のことなんて全然考えてない。
―― それが気づいたら3年間、毎週出演することになります。ちょうど、外国人タレントブームでもありました。
デーブ 『いいとも』での同期が、ケント・デリカットやオスマン・サンコン。ブームの影響もあってか、だんだん雑誌の企画とか他の番組にも出るようになって、いつの間にかワイドショーで社会問題をしゃべるコメンテーターになってました。だから、計画的に狙ってたわけじゃないんです。コメンテーターをやってるうちに、いろんなことを言って「ゴメンテーター」になった(笑)。
―― その間もABCテレビの仕事を続けてるんですよね。ロサンゼルスのマンションを引き払うきっかけは、何だったんですか?
デーブ ちょうど4年間で向こうの番組が終わったんです。番組の予算があって給料も高いし、日本のホテル代も全部テレビ局が払ってくれてました。僕が日本のテレビに出ることも全然気にしない。好きにやったらいいよって。そのうち、各テレビ局にも頻繁に出入りするようになって、楽しくてしょうがなくなってきた。そしたらもう帰れないですよ。