右翼から左翼まで対談し続けたバブル時代
―― 留学生時代とは一転して、日本が楽しくなったんですね。
デーブ そのときにはもうバブルに突入してました。イケイケで何でもありの時代。テレビの深夜放送もすごかった。とんねるずがカメラ壊したり、乱入したり。今はもうできない。
―― そのバブル真っただ中の1989年、『週刊文春』で対談の連載が始まります。タイトルは、「デーブ・スペクターのTOKYO裁判」。対談相手には戦後史の大物がズラリと並んでますね。赤尾敏、笹川良一、竹中労、塩見孝也と、いわゆる右翼から左翼まで幅広い。
デーブ 僕は、本当は対談が好きじゃないんですよ。お互いに「そうですね」って言いあうだけで、盛り上がってきたら締めになるでしょ。だから、やるからには誰もやったことない挑発的なスタイルでいこうと思ったんです。笹川良一を呼んだのも、本当の東京裁判に出た人に2回目の「TOKYO裁判」に出てもらおうって企画したの。こんなの誰も思いつかないでしょ(笑)。
―― あらためて全部読みましたが、面白すぎますね。これだけの人物を呼べたというのは、出版社にも力があったということですか?
デーブ 出版社というより、花田さんだ。あと、担当の仙頭さん。
―― 『週刊文春』編集長だった花田紀凱さんは、現在『月刊Hanada』の編集長、仙頭寿顕さんは『Will』を出版しているワックの編集者です。そのメンバーで「TOKYO裁判」をしていたというのは意味深ですね。対談相手は、デーブさんが選んでたんですか?
デーブ 文春からの打診もあったけど、ほとんどそうです。でも、みんな嫌がっちゃって、だんだん出る人がいなくなったね。落合信彦の回のこと知ってる?
―― ボツになったんですよね。実際に対談はしたんですか?
デーブ しました。向こうが怒って何らかの圧力をかけたんですよ。でも、そういう展開も楽しくてしょうがない。
イラク大使を本気で怒らせたことも
―― 約170回の連載の中には、ほとんど喧嘩してるような回もありますね。
デーブ 怒って帰った人は何人もいるよ。イラク大使のラシード・アルリファイとか、鄧小平の娘の鄧林とか。
―― それが記事としてそのまま載ってるのがすごいですよね。湾岸戦争が始まった直後の対談で、イラク大使に向かって、いきなり「今日は人質にされた時に備えて、着替え用の下着を持ってきたんですよ」ですからね。
―― ホロコースト否定論者の宇野正美さんとの対談のときは、デーブさんも本気で怒っているように見えました。
デーブ それでもちゃんと議論するからいいんですよ。朝日新聞社で自殺した新右翼の野村秋介とか、パリ人肉事件の佐川一政にも出てもらってる。僕は、誰とでも平気で対談できるんです。