今でも結び付けられる「永田軍務局長斬殺事件」と「二・二六事件」
事件はこれだけで終わらなかった。皇道派は相沢中佐に対する軍法会議での公判を勢力巻き返しの宣伝の場に利用しようと画策。公判中は東京・麻布のフランス料理店で青年将校らが集まって公判報告の会合が開かれ、決起の気運が盛り上がった。
1936年2月25日、皇道派の陸大教官による特別弁論。取材していた同盟通信の斎藤正躬記者は、1967年2月の東京12チャンネル(現テレビ東京)「証言・私の昭和史」で「聞いておりますと、はっきりとした現状変革なんで、これは当時の治安維持法にも触れるわけなんです。それを公開裁判で堂々というんだから、まあ、皇道派の人々の考えの宣伝というか、プロパガンダの場になっていたんです」と証言している。
日本史最大のクーデター未遂事件が起きたのはその翌日。以後、流れは一変した。公判は非公開となり、5月7日、死刑判決。翌8日には、二・二六事件の引き金の一つとなった第一師団の満洲移駐第一陣が出発した。7月3日、死刑執行。遺骨が自宅に還ったことを伝えた4日朝刊の同じ紙面には、オリンピックに出場する日本選手団のベルリン到着のニュースが大きく扱われている。「相沢事件」とも呼ばれる永田軍務局長斬殺事件は、現在も「二・二六」と直接結び付けて語られる。
現代の官僚にも通ずる、自己革新能力を失った日本軍
早坂隆「永田鉄山 昭和陸軍『運命の男』」の帯にはこうある。「東條ではなく、この男だったら太平洋戦争は止められた」。語り継がれている言葉の一つというが、その指摘は当たっているだろうか? 同書にあるように、永田が極めて優秀な軍人だったことは間違いない。幼年学校と陸士は首席、陸大では2番。まぎれもなく日本陸軍最高の頭脳だった。しかし、そこには根本的な問題があった。
例えば、将官や参謀を養成する陸大の中身。陸大教官や校長を務めた飯村穣・元中将は「白を黒といいくるめる議論達者であることを、意志鞏固なりとして推奨したのではないか」と述懐したという(大江志乃夫「天皇の軍隊」)。戸部良一ら「失敗の本質」は指摘する。「日本軍は近代的官僚制組織と集団主義を混合させることによって、高度に不確実な環境下で機能するようなダイナミズムをも有する本来の官僚組織とは裏腹の、日本的ハイブリッド組織をつくり上げたのかもしれない」。その結果、「日本軍の最大の失敗の本質は、特定の戦略原型に徹底的に適応しすぎて学習棄却(学んだ知識などを捨てて学び直すこと)ができず、自己革新能力を失ってしまった」。筆者に言わせれば、それは本質的な議論がないまま思い込みで一方向に動く組織だ。
それから80年余り。いまも官僚はさまざまな問題を起こす。その本質は変わっていないのでは?