永田鉄山とは違う道を歩いた陸士同期・小池七郎の人生
昭和の軍閥について語るとき、必ず出てくるのが「バーデンバーデンの密約(盟約)」だ。1921年10月、永田と、小畑敏四郎、岡村寧次、東条英機がドイツの保養地バーデンバーデンに集合。(1)陸軍の人事刷新(長州閥専横の打破)(2)総動員態勢に向けての軍政改革――を確認した。陸士で東条だけは17期生だが、あとの永田、岡村、小畑は同じ16期生で「三羽烏」と呼ばれた。そのことを考えたとき、筆者は1人の人物のことを思い浮かべないわけにはいかない。それは、筆者の祖父で3人と陸士同期だった小池七郎だ。
いま手元に「陸軍士官学校歴史附録生徒名簿」のコピーがある。祖父のことを調べていて入手した。そこには生徒名と「試験列叙」、つまり試験の成績順の序列が書かれている。成績は「豫(予)科」と「本科」に分かれる。「豫(予)科」とは陸士入学前、配属された原隊で1年7カ月、下士官として勤務した時の成績と思われる。本科は原隊から派遣された陸士在校時(この当時は1年間)の成績。日露戦争の勃発で約1カ月早く繰り上げ卒業した16期生は計549人。永田の成績を見ると、予科は4番、そして本科は1番だった。小畑は予科6番、本科4番、岡村は14番と5番。ほかに、戦後の東京裁判でA級戦犯として処刑された土肥原賢二は3番、6番、同じ板垣征四郎は68番と25番だった。この序列はこの後、現役の軍人である限り付きまとう。
小池七郎は予科99番、本科125番。軍人としての将来を考えれば問題にならない成績だ。その後、永田らは陸大も卒業して順調に昇進。岡村、土肥原、板垣は大将に、永田と小畑は中将になった(17期の東条も大将に)。それに対して祖父七郎は原隊こそ歴史のある近衛歩兵第二連隊だったが、何があったのか、栃木・宇都宮の新設連隊に転属。そこで不祥事を起こしたのか、1年余の停職処分を受けた後、中尉のまま1914年6月、腸結核のため満33歳で死んだ。この月、ヨーロッパでは第1次世界大戦のきっかけとなるサラエボ事件が発生。永田は大尉でドイツ留学中だった。筆者の父は1歳のときに死んだ祖父を生涯誇りにしていたが、私とも共通するDNAを考えれば、彼が軍人向きだったとは思えない。残されたものは彼の元に届いた女名前の絵葉書九十数枚だけ。軍人として何を考え、何をしたかったのかなどは全く分からない。比較するのもおかしいが、陸士同期の軍人たちの事績を見るたび、エリート軍人の光と影を見た思いがする。
本編「永田鉄山斬殺さる」を読む
【参考文献】
▽テレビ東京編「証言・私の昭和史(2)戦争への道」 文春文庫 1989年版
▽早坂隆「永田鉄山 昭和陸軍『運命の男』」 文春新書 2015年
▽大江志乃夫「天皇の軍隊」(「昭和の歴史3」) 小学館 1982年
▽戸部良一ら「失敗の本質 日本軍の組織論的研究」 ダイヤモンド社、1984年
▽高橋正衛「昭和の軍閥」 中公新書 1969年