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急激なトーキー映画の進出 突然に通告された「楽士・弁士の解雇」

 翌月の1929年6月、東京・丸の内の邦楽座は、日響管弦楽団の楽団員に同月いっぱいでの解雇を通告した。同劇場は山田耕筰が指揮する同楽団の演奏を売り物にしていたが、トーキーシステムの導入で、アメリカ映画の上映に合わせて、送られてきたレコードによる音楽演奏が可能になったためだった。

 楽団員は自分たちだけの問題ではないと他の映画館の楽士にも呼び掛けた結果、7月7日、楽団員200人余りが参加した集会を開催。レコード伴奏反対と解雇延期を訴えた。交渉の結果、解雇は1カ月延期されただけで終わった。

 同じころ、夢声の新宿武蔵野館でも、事前通告なしで楽士17人中6人に「7月末で解雇。手当1カ月分」が提示され、争議状態に。警視庁が仲に入った形で金一封を追加支給することで8月10日、決着した。「トーキーの急激な進出は楽士のみにとどまらず、説明者(弁士)の身の上にも死活問題として迫ってきた」と、映画ポスターなどのコレクターでもある御園京平氏の「活辯時代」は書く。

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新宿武蔵野館などの争議突入を伝えた東京朝日新聞

争議がさらに過熱 映画館占拠、電話線遮断、乱闘騒ぎも 

「マダムと女房」公開翌年の1932年4月9日、SP(松竹とパラマウントの提携)系の浅草・大勝館と電気館で専属の弁士計10人に解雇が通告された。その中にはのちの映画監督・黒澤明の実兄で、翌年自殺する須田貞明(芸名)もいた。弁士らは抵抗して大勝館に立てこもった。

 16日には東京・亀戸などの3館で弁士・楽士が退職手当制定などを求めて映画館を占拠。そして18日、松竹系とSP系など「オール松竹」計23館(のち30館に)がゼネストに入った。4月19日の朝日朝刊は社会面トップで「説明者と楽士等つひに総罷業 浅草から市内外へ波及」の見出しで報じた。写真は「その日の浅草映画街」の説明で、「本日突如映画従業員ゼネストの為め無説明無伴奏に付御諒承願ひ舛」と手書きで書かれた立て看板が写っている。「丸で試寫会 観客納らず」の小見出しに「見物席からは『料金を返せ』とワイワイ騒ぎだす始末」とも。日活系の映画館もストに加わったが19日、浅草の「顔役」らの仲介で、大勝館、電気館の解雇は一応撤回。後で6~8カ月の退職手当で決着した。

弁士らのストライキを報じた1932年4月19日の東京朝日新聞

 次いで29日からは日活系と傍系の19館が一斉にストに突入した。中でも神田日活では、参加者が電話線を切断。警官隊と乱闘になって検束されたことは本編に書かれている。その翌月の5月には、犬養毅首相が海軍青年将校らに殺害される「五・一五事件」が起きている。