「すぐに飽かれはしまいか」トーキー映画の誕生当初
1931(昭和6)年8月1日、松竹映画「マダムと女房」(五所平之助監督)が公開された。日本でも、それまで部分的に音声が入った映画は作られていたが、全編トーキーとしては初めて。日本映画の大きな曲がり角だった。だが、問題は既にその前に起きていた。
本編にある通り、アメリカのトーキー映画「進軍」などが日本で初公開されたのは2年前の1929年5月9日。夢声が弁士として所属していた新宿武蔵野館での封切りだった(当時は現在のような全国何百館一斉公開ではなく、東京や神戸などのいくつかの映画館での封切りが普通)。同館は封切りに当たって、トーキーのフィルム1コマを封入した挨拶状を各方面に送った。その文面には次の一節が。
現在トーキーは科学的にも感覚的にもすこぶる精巧を極め、スクリーンから会話、音楽、唱歌その他全ての音が些少の雑音も交えず発せられるので、いながらにして海外の風物、名優、名女優、名音楽を、その姿と共に耳をもって触れらるるからであります。
田中純一郎「日本映画発達史」より
当時、トーキー映画の何が「売り物」だったかが分かる。
実際に見た映画興行者の1人は「ただ興行として困るであろうことは、全部に伴奏と音響と台詞が入っているので、説明のつけようがないことである。どうしてもわが国で公開するトーキーは、台詞の入れてあるオールトーキーでは困る。最初はいいかもしれないが、すぐに飽かれはしまいかと思う」と懸念を示している。
まず映画説明ありきの当時ではそうした受け止め方が大勢だったかもしれない。トーキーが入ってきたころは観客が2割も減ったこともあり、映画関係者の間では賛否両論が入り乱れた。主な反対論は(1)演劇に逆戻りする(2)映画館の費用がかさみ採算がとれない(3)製作費が膨大――など。「トーキーは一時的流行」とする見方も根強かった。笑うことはできない。サイレント末期、映画は芸術として完成された形に到達したと見る人も多かった。だが、トーキーを前提とした映画作りが進み、観客が説明と生音楽抜きに慣れたとき、弁士や楽士はどうなるのか……。その結果はすぐ表れた。