解説:映画が「声」を持ち、日本独特の「芸術」が姿を消した

 いまシネコンやテレビやDVDで映画を見る人は、映像に音声や音楽、音響効果がついているのが当たり前だと思っているだろう。しかし、映画はそもそも「サイレント」=音のない芸術 として始まった。映像に音を連動させて再生させる技術が難しく、映画の発明から30年近く時間がかかった。その間、「活動写真」と呼ばれた映画は、出演者のセリフは画面に字幕(スポークンタイトル)で入れ、オーケストラや小楽団による音楽の生演奏が行われるのが普通。ところが、日本ではそこに「活動弁士による説明」という独特の形が加わった。

©文藝春秋

 当時は基本的にあらすじとスポークンタイトルしかないため、弁士(説明者)は映画のイメージに合わせてオリジナルの台本を作り、舞台脇の演台に立って映画を見ながら語りを重ねる。ストーリーや舞台設定、出演者の役の説明、背景や場の雰囲気……。そこに生の音楽が絡む。それは、現在の映画とは別物の映像と音響の体験、あえて言えば日本独特の「芸術」。筆者の友人であり、いまも活動弁士として「無声映画鑑賞会」などで活躍している澤登翠さんは「映画というより演劇、特にミュージカルに近いかも」と話す。

 弁士の草分けは「すこぶる非常」が口癖だった駒田好洋。それが無声映画の全盛期になると、東京、京都、神戸をはじめ、全国の主だった映画館は専属の弁士を抱え、その芸を売り物にした。客は映画そのものより、お気に入りの弁士の語りが聞きたくて劇場に行ったぐらい。

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「春や春、春南方のローマンス」の名文句で知られた生駒雷遊(本当は別の弁士の“発明”らしい)は東京の下町・浅草の帝国館、千代田館を本拠に活躍。赤坂葵館、新宿武蔵野館と山の手で鳴らした夢声と並び称された(「徳川」という芸名は「葵」からの連想で付けられた)。

漫談を披露する徳川夢声(昭和37年) 本編「反トーキー・ストライキ」の著者でもある ©文藝春秋

 ほかにも山野一郎、大辻司郎、牧野周一……。「鞍馬天狗」で知られたチャンバラ俳優・嵐寛寿郎は竹中労「聞書アラカン一代 鞍馬天狗のおじさんは」の中でこう語っている。「サイレント映画・無声映画と言いますやろ、これ正確ではないんダ。活弁というものがある、説明付きます、楽団かてついてます、サイレントやない、無声やない、それで一つの型がでけとる。日本映画だけでっしゃろな、こういう特殊な形態は」「日本でトーキー遅れたんは、つまり活弁大写真、この型がきちっとでけておったからやとワテは思います」。しかし……。