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時代と共に消えた「弁士」たちはその後……

 同年6月の新宿武蔵野館と松竹館の争議は本編の通り。そのニュースを載せた6月6日の朝日には「夢声も」の小見出しでインタビューに応じた内容が載っているが、それも本編の説明と変わらない。弁士、楽士解雇をめぐる争議は各地に広がって行った。6月28日の神戸新聞は、松竹側の対応に責任ある姿勢が見られないとして、「京阪神三都十映画館は一斉に総罷業の火蓋を切った」と報じている。しかし「大きな時代の流れには抗し得ず、彼ら(弁士)はどうすることも出来なかった」(「活辯時代」)。やがて「トーキー」という言葉が使われなくなるほど、映画が声を持つことが普通になっていく。そして、日本独特の映画の形もほとんど消え去って行った。1932年4月19日の朝日の記事の主見出しはこうだった。「機械文明に追はるゝ群れ」。

争議は解決した。だが弁士は―― 1932年6月18日の東京朝日新聞

 弁士らはその後、俳優や実業家、興行師、漫談家など、それぞれの生き方を見つけた。夢声は主に俳優として古川緑波らの劇団「笑の王国」や文学座に参加。戦前の映画「吾輩は猫である」「綴方教室」などに出演した。ラジオでは、吉川英治原作「宮本武蔵」の独特の間の語りが名高い。戦後は「話の泉」などのラジオ番組に登場。随筆も達者で、「夢声戦争日記」は記録文学として評価が高い。いまでいう「マルチタレント」のはしりというと、印象が軽すぎるか。

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【参考文献】

 ▽竹中労「聞書アラカン一代 鞍馬天狗のおじさんは」 白川書院 1976年 
 ▽田中純一郎「日本映画発達史2」 中公文庫 1975年
 ▽御園京平「活辯時代」 岩波同時代ライブラリー 1990年
 ▽升本喜年「人物・松竹映画史 蒲田の時代」 平凡社 1987年