確かに学業成績は良い方だったし、作文や数学コンクールなどの受賞歴もあった。だが同学年には東大に合格していた者、部活動で全国レベルの活躍をした者、生徒会長を務めた者など、他にも優れた人間はたくさんいたし、その人達の方が表彰されるに相応しいという見方も当然ありうる。その中で私が選ばれたのは、やはり障害者であることが大きかっただろう。
それを理解してなお、私は表彰されることに対して何の恥じらいも感じなかった。何故なら、障害が原因で多くの余分な苦労を強いられてきたし、ハンデを克服するために目に見えないところで人の何倍も努力してきたという自負があったからである。
高校に進学するために、トイレの猛特訓
例えば、上半身の麻痺のため書くのが遅い私は、同じ試験時間内で終わらせるために、他の人より素早く問題を解く練習を積み重ねた。また、高校入学までの道も決して平坦ではなかった。高校では介助員による支援制度が無いため、中学生当時自力で排泄ができなかった私は、周囲から進学を諦めるように促された。
それでも、どうしても高校に進学したくて、血の滲むような猛特訓をした。一人で排泄ができるようになるまでに、何度うんこを漏らして泣いたか分からない。
仮に障害者が健常者と同じ“成果”を挙げようと思えば、どうしてもプラスアルファの努力になる。それら諸々について他の人は知らないだろうが、間違いなく私が成し遂げてきたことであり、その努力は評価されてしかるべきだ。こうした努力が好意的に取り上げられることが、悪いことだとは思えない。
多様な切り口のうち、「感動」の側面に焦点を当てているだけ
「24時間テレビ」は障害者にまつわる物語を、健常者の視聴者を想定した感動的なものに限定しているという点で、障害者を「モノ扱い」しているという批判もある。この意見も一理あるが、私自身は賛同しない。
というのも、今は「24時間テレビ」だけでなく、様々な番組で障害者を扱うようになっているからだ。もし仮に、障害者を「感動の対象」として見るような番組しか存在しないとすれば、それは確かに問題だろう。人間には誰しも様々な様々な側面がある。それを無視して、いついかなる時でもその人の特定の一面しか見ないという態度は、人間をモノ扱いすることに繋がる。
しかし今や各局は、2016年に「24時間テレビ」のパロディを放映し、「感動ポルノ」を批判したNHKの「バリバラ」をはじめ、他にも色々なニュースや社会派番組、報道番組などで、多様な角度・切り口から障害者を扱う。その一つとして「感動」の側面を軸にした「24時間テレビ」も存在するということに過ぎない。
そして「24時間テレビ」で集まった募金によって必要な支援を受けることができた障害者が数多くいることも忘れてはならないだろう。だとしたら、本当に必要なことは24時間テレビを叩くことではない。