――村西監督は自身も作品に出演したわけですが、そもそものきっかけとなったのは?
村西 はじめては柳沢まゆみ主演の「セーラー服を脱がさないで…」(1986年)の撮影でしたね。柳沢さんが相手役のことを嫌がっちゃって、愛のある絡みが撮れなくなりそうだったんです。焦りましてねぇ。私が相手役をするしかないなと。それからは女優さんを癒すために、丁寧に丁寧に愛撫しましてね、こう言ったんです。「ああ、素晴らしい。ナーイスだ」。
――そうして生まれたスタイルが後に人気となっていくわけですね。
村西 最初は批判されましたよ。オヤジの声なんて聞きたくないって(笑)。あとは “ハメ撮り”も人気になって、その後定着していきました。
――どういうきっかけで生まれたのですか?
村西 それも女優さんとのやりとりから生まれたんですよ。ある女優さんが現場に来たはいいけれど、「やっぱり人前でセックスはできません」と怖気づいたんですね。でも「監督さんと2人ならいいです」と言った。だから私がカメラを持って、女優さんと部屋で2人っきりになったわけです。カメラを持って「お待たせいたしました。お待たせしすぎたかもしれません。昭和最後のエロ事師、村西とおるでございます。誰もいないね、2人っきりだね」と、こう始めた。すると女優さんも「そうです」と頷いたんですね。
――女優を尊重することで生まれた演出方法だったと?
村西 私にはね、女性への尊崇の念がベースにあるんです。お祖母ちゃん子、母親っ子だったので、女性を苛めたりするのがなかなかできない。日活ロマンポルノはレイプとか暴行とか、女性に対する暴力を興奮の材料にしていたのですが、この女性がいじめられたら、この子の息子はどう思うんだろう、どれほど俺を憎むんだろうと思ったら、そんなことできなくなっちゃう。
――代表作といえばやはり黒木香主演の「SMぽいの好き」(1986年)でしょうか。あの作品の出現で、女性の性欲が“発見”されたと語られますよね。
村西 おっしゃる通り! 黒木さんのAV初出演作なのですが、彼女はすごかった。一番最初にお会いした時に、「どういう風にしてこういうお仕事をしたら良いでしょうか?」と聞かれたので、「色々な言葉を言えた方がいいから、ポルノ小説を勉強してみたらどう?」と返したんですね。そうしたら彼女は「わかりました」と言って、現場に大学ノートを持ってきた。そこには宇能鴻一郎とか川上宗薫のポルノ小説から、20ページ分くらい「許してください」「やめてください」とかいう言葉がびっしり書いてあったのです。真面目な人でしたね。
本番でも自分から積極的に私を誘い、快感を貪っていた。「女性の性はこんなに男性の性を凌駕しているのか」ということを世に知らしめ、日本中がそれに刮目したわけです。ちょうど男女雇用機会均等法が施行され、女性の時代になりつつあった時期でした。時代があの作品を生んだといってもいい。奇跡的な作品でしたね。